通州事件のユネスコ申請に関して (4)

日本人の間にはあまり知られていない事件ですが、1857年にインドの反乱軍によって、『カウンプールの籠城』と呼ばれる虐殺事件がおきました。https://en.m.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Cawnpore

正確な犠牲者数はわからないものの、女性・子供206人を含める何百人ものイギリス人がむごたらしく惨殺された事件です。


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当時イギリスはインドの3分の二を東インド会社を通して直接支配し、残りの3分の一は、イギリスの傀儡であったインド人王子によって支配していました。

5月10日、徒党を組んだインド人の武装集団が、駐屯していた複数のイギリス人を殺害し、40マイル先のデリに向かって反乱を起こしました。
インド人はこの事件を『インド独立第一戦争』、或いは、『第一戦争』民族決起と呼びますが、この事件は独立を求めて起こされた事件ではなく、範囲も北西部、主にベンガル地方で起こったのみです。特定の指導者の下に、道義あって起こされた反乱ではありません。

反乱軍を避けて逃げ込んだ何百人ものイギリス人は、サー・ヒュー・ウィーラー将軍の下にカウンプールの駐屯基地にバリケードを築いて籠城しました。ウィーラー将軍と親しくしていたインド人、ナナ・サイーブの庇護の約束の下、イギリス側は基地にあった武器をナナに渡し、護衛を期待しましたが、大量の武器を携えて反乱軍を導いていたのは、ナナ・サイーブその人でした。

何週間に渡る籠城の結果、多くのイギリス人は飢餓と錯乱状態に陥り、ウィーラー将軍の息子も銃撃戦で殺されました。

6月4日、ナナは、女性と子供、また病人がガンジス川を船で渡り、逃げ出すことを許可しましたが、彼らが乗り込んだボートは、たちまちナナの部隊によって銃撃され、ガンジス川を泳いで対岸へ渡った生存者は、こん棒による殴打で殺害されます。

ボートへの銃撃を生き延びたイギリス人の女性と子供、数にして210人は、『淑女の家』と呼ばれた建物に閉じ込められますが、7月15日、イギリス軍の到着の噂を聞いたナナによって、何人もの肉屋が呼ばれ、大きな肉切り包丁で以て惨殺されます。

2日後、サー・ヘンリー・ハヴロック将軍の率いるイギリス軍が到着し、反乱軍の制圧をし、参加者を処刑します。

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さて、この虐殺事件は、数百人のイギリス人の一般市民が惨たらしく殺された歴史の真実ですが、イギリス側に同情し、インド側を非難するような声は上がるでしょうか。

この虐殺事件をイギリス側がユネスコの記憶遺産に登録申請する事はまずあり得ませんが、もし申請され、登録された場合、恐らく、『そもそもなぜイギリス人はインドにいたのか』という『イギリスによるインド植民地支配の正当性』が改めて疑われるだけです。

日本の国内事情以外を鑑みれば、『通州事件』も全く同じ類の事件です。

ユネスコの記憶遺産に通州事件を申請し、たとえそれが登録されたとしても、日本側の期待する効果をあげる事は無いだろうと思えるのです。