母の死

母に癌の転移をどうやって伝えようか、私たちは考えなければならなかった。母の双子の姉である貴子伯母も、舞ちゃんの母である叔母も、誤魔化したり嘘をつく事無く、医師の言葉をそのまま伝える方が良いと考えた。私もそのように父に提案した。父も異存は無いようだったが、果たしてその役割を自分一人で負う事に不安を感じているようだった。結局、母の退院当日に担当医との面談が設けられ、医師の口を通して病状が伝えられる事になった。その場には父と叔母らが同席する予定だった。
それまでの入院期間、私たちの誰一人として、母に本当の事は言わない約束になっていた。不安を感じていた母は、双子の貴子に向かって「本当の事、知っているんじゃないの?」と顔をのぞき込んだり、私に対しても「お前は聞いていないの?」と聞く事があった。私たちはそれぞれ、事情を知らない母の前で、悲しんでいる顔も、泣いた顔も見せられず、嘘をつき続けるしかなかった。

 

私は、母の退院した日に実家を訪ねた。泣き崩れているのか、動揺しているのか、母がどのように病状に関する医師の言葉を受け取るかは不明だったが、精神的なサポートを必要としている事は明らかに思われた。その日は叔母たちも母の家に集まる事になっていた。玄関を開けると、舞ちゃんの母親である叔母が、私を脇に寄せ「どうしよう。先生が口ごもってしまって、ハッキリと余命の事も言わなくて、深刻さが伝わっていないと思う」と囁いた。
「どういう事?だって先生、病状についてハッキリ言ってくれるんじゃなかったの?」
叔母に言わせると、医師はハッキリした病状を母に伝えず、母の方が「先生、末期なんですか?余命はあと、どのくらいなんですか?」と聞いても、口ごもって言わずじまいになったようだった。私たちは退院した母が、全く悲嘆にくれておらず、「何だかわからなかった」と落ち着いてしまっている事に戸惑った。取り合えず、その日はそのまま「退院祝い」のような夕食をとり、あとで父に電話をした。父は「お母さんが泣いていないなら、それで良いじゃないか、悲しい思いをさせても、みんな結局自分の家に帰ってしまって、お父さん一人で面倒をみる事になるんじゃないか」と態度を変えていた。確かに、母を悲しませる事に目的がある訳ではなかった。その後の精神的ケアを父一人が負う事を考えれば、ハッキリと伝える事がそれほど重要でもないと思えてきた。母は病状について少しでも希望を持ちながら余命を過ごそうとしているようにも思えた。私は第三子を妊娠した身で、幼稚園に入園した香とオムツを外す時期にさしかかる基の世話に明け暮れながら、出来るだけ実家に通い、夕食を作ったり、掃除機をかけたりした。母は以前のように怒鳴ったり、罵倒する事なく、ベッドでテレビを見ながら静かに時間を過ごす事が多くなった。病気の事について語る事も殆どなかったが、それでも癌によく効くという食べ物を持って行くと、それらを喜んで食べてくれた。香や基を連れて行くと、嬉しかったようだ。ところが父は「家が散らかる」と言って、掃除をしてから帰るように要求した。
私の出来る範囲での支援は、父には充分と映らなかった。そもそも父には、末期癌を患い、余命3ヶ月から6ヶ月と宣告された母と、自分一人が向き合って暮らしているという不満があったのだろう。父はしばしば「お前たちは好き勝手に離れて暮らして、お母さんの面倒をみているのは、お父さんだけだ」と怒った。私が、自分も幼い子供を抱え、妊娠している身でもあると反論すると、「頼んで妊娠してもらったわけじゃない」等の屁理屈を返してきた。


父には、私の立場などを顧みたり理解する事は不可能だった。そうでなくても父は、母を喜ばせる事だけ考えて今まで生きてきたのだ。父にとって母は絶対的な存在であり、妻に対してというよりも、幼い子供が母親に必死にしがみつくように、母につき従っていた。父にとって私は、自分の家の事だけしかしない、自分勝手で親不孝な娘でしかなかった。「母はもう長くないし、今しか助けをしてあげられない」と思うのだが、八つ当たりのような父の言い分を聞く度に、自分の家庭にこれ以上の負担をかけてまで行きたくないと足が遠のくのだった。そうすると叔母たちから電話がかかって来て、子供を連れて母を訪ねるよう、頼まれるのだった。

あとどれくらい持つかわからない妻を抱え、全くどうして良いかわからない、という父の気持ちも理解できない訳ではなかった。恐らく父も不安を抱え、悲しくもあり、サポートを必要としていたのだろう。ある時、母が日中電話をしてきた。「パパが可哀そうで」と泣いていた。母に言わせると、父は夜中に何度か母の寝室に赴き、母が息をしているのか心配そうな顔で覗き込むのだそうだ。「ああ、心配なんだろうなあって、パパが可哀そうだなあって思うの」と声を詰まらせて泣いていた。私も泣けてきたが、出来るだけ母には悟られないように「お父さん、心配なんだろうね。可哀想にね」と相槌を打った。父の孤独感を考えると可哀想にも思えたのだが、私も幼稚園の細々した要求に応える事、香と基の世話や、家事やらで、精一杯だった。


私はいつからか、重い荷物を抱えて自転車で高速道路を走る夢を見るようになった。夢の中でも私は疲労しており、スピードをあげて走る他の車に追いついていけないように感じていた。自分では精一杯走っているつもりなのだが、所詮自転車をこいでいるだけなのだった。また、似たような夢で、延々と勝てない討論を続ける夢もあった。常識や論理の通用しない相手と議論をしているのだが、どんなに私の立場を説明しても、相手を納得させる事は出来ない夢だ。いずれにせよ朝起きても疲れが残る夢だった。これらの夢は、恐らく父の言葉を気にし過ぎた為に見た夢なのだろう。心に留める必要のない他人の言葉さえ、払拭したり受け流す事が出来ず、もがき苦しんでしまうのは、母も同様だった。母は苦しかっただろう。
やがて第三子の出産の為の入院準備をしなければならない時期が来た。臨月に近づいた為、私は車の運転を控えるようにしていた。買い物に付き合う為の夫の休みを考えると、都合の良い日は限られていた。夫ともに時間を工面して買い物に出かけている途中、父からの電話で、伯母が来ているので、すぐに香と基を連れて来るように言われた。入院の準備のために買い物に出ている事を伝えると、それでも出来るだけ早く来いと言われた。ところが私も、その日でなければ済ませられない用事をしているという意識があり、買い物を中断して実家に行こうとは思わなかった。やっとの事で用事を済ませ、実家に行くと、もう既に叔母は帰った後だという事で、父はカンカンに怒っていた。母も私を睨んでいた。私も忍耐の緒が切れたように「叔母ちゃんが帰ってしまったって言っても、それがそんなに重要なこと?じゃあ、私の入院の準備は、一体誰がしてくれるの!」と怒った。父は「お前の家の事なんか、知るか!」と怒鳴り、私を殴ろうとして立ち上がった。母は急いで「お腹が大きいんだから、殴らないで!」と父を諫めたが、父は「そんなの知るか!」と掴みかかろうとした。私は手にしていた買い物の袋を父の顔に投げつけ、逃げるように家を飛び出した。夫は未だ駐車場で、二人の子供を車から降ろそうとしていたところだった。私は急いで「もう良いから帰ろう」と言い、車にかけ乗った。私は悔し涙を流していた。母があとどのくらい持つのかわからないが、またしばらく実家に寄る事は止めようと思った。

それから10日程して、叔母から電話がかかってきた。事情は聞いたけれど、やっぱり一緒にお見舞いに行こう、という内容だった。私は叔母の心遣いに感謝して、一緒に実家を訪れた。母は何事も無かったかのように、香と基を連れて顔を見せると喜んでくれた。母はだいぶ弱って来ていたようで、静かだった。帰り際、叔母の車に乗ると、父が姿を見せた。父には、先日の事が無いように振る舞おうと思ったのだが、「お前、子供は一体いつ産まれるんだ。もうお母さん、持たないんだよ。もうダメなんだよ。死ぬ前に会わせてやらなきゃ。一体いつ産むんだ」と聞いてきた。私は呆気に取られたが、しばらくすると悔しくなってきた。私は母親として、産まれる子供の都合に合わせて産むしかない。いくら私の母が死にかけているからと言って、子供の準備ができていない内に産む事はできないと憤った。叔母は「持たないって、あとどれくらいなんだろう」と小さく呟いた。

そうこうしている間に出産予定日が過ぎ、第三子を産む段階が来た。三番目の子供だというので、軽いお産だろうと担当医も考えていたのだが、実際には出産に丸二日かかった。お産が余りにも長引くので、私は疲労困憊してしまい、呼吸をする事を忘れる時があった。看護婦さんに「お母さん、息をして下さいね」と言われ、ハッとした。やっと生まれた子供は男の子で、光(仮名)と名付けられた。

私は母が生きている間に光を産めた事に、こころから安堵した。出産を終え、やっと個室に戻れた時、携帯から母に電話をした。「お母さん、私も頑張って産んだから、お母さんも頑張ってね」とだけ伝えた。そう言った後で「母も充分頑張っているではないか」と、自分の言った無神経な言葉が後悔された。母がいつ死ぬかわからないという事で、担当医に頼んで入院の日数を少なくしてもらい、退院した日には、そのまま直接実家に立ち寄った。母は酸素のチューブを鼻にさした姿で、光を抱いて涙を浮かべた。父も涙を浮かべながら、私にお茶を入れてくれた。
退院した二週間後、もう一度光を連れて実家を訪ねた時には、母は眠っていた。母の寝室には、色々な色の千羽鶴が窓辺に飾られていた。叔母が光を母の脇に寝かせて、「光ちゃんが一緒に寝ているからね」と母に声をかけた。その翌日、母に付き添ってくれていた伯母が電話をしてきた。母は度々襲う癌の痛みがひどく、今やっとそれが収まったのだと言う。
「今、お母さんが、どうしても話したいって言っているから、電話をかわるね」
電話の向こうで、母がひどい痛みの中である事が分かった。ようやく電話を握る事が出来たようで、母は一言、
「大事に想っているからね」
とだけ言った。

私は急いで「私も、お母さんの事を大事に想っているから」と応えたのだが、母はやっとの事でそれだけ言うと、その後すぐに倒れこみ、伯母に電話を返したようだった。伯母は「じゃあね。今、お母さん、また苦しくなっているから。じゃあね。またね」と言って電話を切った。
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母の声を聞いたのはそれが最後だった。母はその二日後、私と父、弟、伯母たち、友人の見守る中、息を引き取った。私は母の手を握り、足をさすっていた。

母のお葬式があったのは、光が生まれてちょうど三週間目の日の事だった。お経を読むお坊さんが五人いる、大きなお葬式だった。

初七日やその後の儀式などが済んでも、母の双子の姉であった伯母は私たちを心配して、実家を頻繁に訪れてくれた。そうした中、伯母が母による最期の電話について話してくれた。母はその何日か前、海兵隊・武田鉄矢の歌う『贈る言葉』の最後部分の歌詞を思い出そうと必死だったらしい。伯母と一緒に何度か口ずさみながら、やっとその歌詞を思い出したようだった。母は涙ながらに、何度もそれを歌うように伯母に頼んだらしい。きっと誰かの事を考え、その歌を歌ってやりたく思っているのだろうと伯母は察知したようだ。伯母は、母が息子の事を考えているのだろうと思ったと言う。ところが、母が弟に語った最後の言葉は「今まで有難う」だった。弟は「お礼なんか言わなくて良いんだよ」と答えたらしい。母はしばらくして、癌の発作の収まった時に私に電話をするよう伯母に頼み、苦しい息の中で私に遺した最後の言葉が「大事に想っているよ」だった。伯母は「おばちゃん、あの時に、ああ、お母さんは、あんたの事を考えていたんだってわかったの」と教えてくれた。

母が私について「大事に想っている」と言った事は、私の記憶の限りで言えば、それ一度きりだった。けれども母は、本当はもっと頻繁に言いたかったのではないかと思う。母の中に、愛情を伝える事や、誤りを認める事への恐れが無ければ、きっと母はもっと自由に、苦しまずに生きられたのではないだろうか。

私は伯母の話を聞いて、涙が止まらなかった。母が死んでしまって悲しいとか、母が恋しいという涙ではない。今まで持ち得なかった母と娘の関係が思われ、普通の母娘の関係が持てなかった事がたまらなく悲しく、悔しく思われたのだ。そして、どれほど愛おしく、悲しく、悔しく思われても、そういう思いをぶつける相手である筈の母が、既に手の届かない場所に行ってしまった事が、例えようもない悲劇に思われた。

 

『これから始まる 暮らしの中で
だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど 私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない
遠ざかる影が 人込みに消えた
もう届かない 贈る言葉
もう届かない 贈る言葉』   

 

武田鉄矢作詞・千葉和臣作曲

 

(10/12)

基を産んで

生まれた子供は男の子だった。基(もとい)と名付けられた子供は、香とは違い、新生児でありながら、一日合計約8時間しか眠らず、あとは延々と泣き続けた。新生児の時の香は、起きていてもお腹が空いていたりおむつが濡れていなければ泣かなかったので、その静かさにあっけなく感じたものだが、基は全く違い、授乳の後、やっと眠ったと思っても、布団に寝かせた途端、起きて泣き出す子供だった。

「赤ちゃんの仕事は、泣く事」と誰かが言っていた。私もそう考えていたが、そうした基準で考えれば、基はウォーカホリックと言えるくらい、いつも泣いていた。殆ど手のかからない新生児であった香と比較して、基はとにかく起きている時はずっと泣いており、子供によってここまで育児は違ってくるのかとビックリした。オシメが濡れている訳でもなく、お腹が空いている訳でもないのにずっと泣いていた為、基を世話してくれていた看護婦さんが「ずっと泣いていますね」と驚いた程だった。

退院後、基の肌に吹き出物ができ、医師から塗り薬が処方された。ところがその薬が合わなかったようで、吹き出物が悪化してしまい、基は痒さの為か、さらに激しく泣いた。翌日、別の薬を処方してもらい、やっと吹き出物が収まった時には、基は、黒目がちの瞳に涙を溜めながら、やっと笑い顔を見せてくれた。基を産んで一月ほど、ホッとした事が無かったのだが、基の笑顔を見て、やっと出産に一段落ついた気がした。基は体が弱かった訳ではないが、手がかかった。体の弱い子供を持つと、親は更にその子にかかりきりになる事が想像できた。

私の両親は、基の出産後、病院に一度見舞いに来た。ところがこの事はあまり記憶に無い。母が香に向いて「赤ちゃんのお名前はなんて言うの?」と聞き、「もとい君って言うの。すてきなお名前でしょ?」と香が答えた事だけは記憶に残っている。私と両親は、それからまた行き来し始めた。特に母が私たちのアパートを訪れる事が多くなった。母がいてくれると香の相手をしてくれるので、実際に助けられた。乳幼児を抱えると、乳幼児の必要を満たす事が優先され、どうしても上の子供が後回しにされる。そういう時に、一人でも上の子供の必要を優先させてくれる大人が増える事は、有難かった。

私は、自分が弟と比較して放って置かれた事を恨んでおり、悲しく思っていた。私が4,5歳くらいの時は、弟は皮膚の手術の為に東京の病院に長い期間入院しており、母はずっと弟に付き添っていた。生まれつき弟には広範囲にわたって大きなあざがあり、何度かに渡って手術が行なわれたからだ。体が弱かった弟は、あざの他にも、色々な手術の為に入退院を繰り返した。一度、弟の入院に付き添っていた母がしばらくぶりに帰ってきた時に、私は母に抱きつきながら昼寝をした事を覚えている。「ママがずっと一緒にいてくれたら、どんなに良いだろう」と考えたのだ。そして母が東京に行ってしまった時には淋しかった。その分、いつも母と過ごしている弟を羨ましく思った。ところが母は時折、体の弱かった弟の不運を悲しみ、私に向かって「お前は幸福の星の下に生まれたけれど、あの子(弟)は不幸の星の下に生まれてしまった」と嘆いていた。母は一度、幼い息子が、手術前に「ママ、もうすぐボクは、おくすりがシュウって出てきて、死んじゃうんだよ。もうすぐ、おくすりが出てきて、ぼくは死んじゃうんだよ」と言って、手術室に運ばれて行った事、またその姿を送る切なさを語った事がある。私はいつも、母が弟だけ連れて家を出ていこうとしたり、弟の誕生日にだけプレゼントを買ってくる両親の行動を見て、弟は母に愛され、私は嫌われていると考えていた。ところが基が「ぼくはもうすぐ死んじゃうんだよ」と言いつつ手術室に運ばれて行く姿を想像しただけで、親としてたまらない気持ちになった。もしかすると母は、弟の不幸を少しでも是正しようと、弟への関わり方と私への関わり方への差をつけたのかもしれない。それが正しい事かどうかは別として、運命に対して少し逆らってでも、子供の不幸を是正してあげようとした母の気持ちは理解できた。

私は二人の子供を持つ親として、母の気持ちが少しばかりか理解できた。一人の健康な子供と、もう一人の体の弱い子供を持った場合、親はどうしたら良いのだろう。恐らく、一方を甘やかし、もう一方には厳しくする、という接し方は間違っているだろう。それでも、運命が一方に厳しくある場合、その一方に対して、何かの形で補ってあげたくなる誘惑に一体どれだけの親が勝てるだろう。                    
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基が生まれ4ヶ月くらい経った頃、私は母に、自分が愛されていないと感じながら過ごしてきた事、ところが手のかかる二番目の子供を持つ親として、母が特別に弟を可哀想に思った気持ちは充分に理解できることを伝えた。それ以上の事は言わなかった。私も母も泣いていた。私は泣いているところを母に見られるのがイヤだったし、恐らく母もイヤだっただろう。これからは少しずつ違う関係が築いていけるかもしれないと期待できそうだった。

それからひと月くらいして、母は大腸がんの手術を受けた。実は癌は一年ほど前に見つかっていたらしいのだが、腫瘍が余りにも小さいという事で様子見となり、ある程度の大きさになってから手術をするという計画だったらしい。大きな個人病院に入院した母は、眺めの良い、大きくて贅沢な個室を貸し切った。手術は成功したと言われ、皆、安心した。術後の回復も順調であると言われ、母は月に一度の術後検診に通う以外、普通に日常を過ごし始めた。ところが私の方は、睡眠不足からくる疲労がたたり、いきなり高熱を出したり、何でもない時に涙が出て止まらなくなったり、口が開けられなくなったりした。基が一才を迎える頃には、私は何週間も長引いた風邪の為、味覚を完全に失くしてしまった事がある。香も基も、咳や鼻水程度の症状があったが、一番ひどかったのが私だった。この時は母が「一緒に行ってあげるから、いい加減、医者に行きなさい」と小さな医院に連れて行ってくれた。医院は風邪を引いた人で溢れてあり、待ち時間が二時間近くあった。香も基もじっとしている事が難しかったが、母が相手をしてくれていた。医者は「こんなにひどくなるまで、なぜ放って置いたんですか?もっと早く来なきゃ」と言ったが、べつに私の事情を知りたかった訳ではなさそうだった。

お正月を過ぎて何週間か経ち、私は再び妊娠した事に気付いた。子供は3人欲しかったので、嬉しかった。ただあまりにも基に手が掛かったので、子供は出来れば香のような女の子が望ましかった。両親に妊娠した事を知らせると、二人とも喜んでいるようだった。母はとにかく香と基を可愛がった。孫の為にはどんな事もしてあげる、というような祖母へと変わっていった。相変わらず、こちらのスケジュールにお構いなしに計画を立てたりする事はあったが、第三子を妊娠した頃には、私の方も融通が利くようになっており、いちいち目くじらを立てなくなった。つわりがひどくなり、疲れも溜まる為、母がどこかに二人の子供を連れだしてくれれば、それだけ休めると考えるようになったのだ。

 

ある春の日、母がやって来て、また体調を崩している私を気遣い、「ばあばが香ちゃんと基くんをお散歩がてら、お買い物に連れて行ってあげましょう」と、幼い子供二人を連れて出してくれたことがある。基はよちよち歩きであり、何メートルか歩くと、すぐに「抱っこ」をせがんだようだ。そうかといって香もおんぶされたがったらしい。そうやって甘える二人の孫を抱えて、母は2時間ほどかけて散歩と買い物に行ってくれた事がある。帰って来た時に母は疲れたようだったが、「香ちゃん、よく頑張って歩いたね。もと君も、頑張って、偉かったね」と二人を労っていた。その翌週、私は父から電話を受けた。

「お母さん、今、検査で国立病院に入院しているんだけれど、もう癌が転移していて、末期らしい。あと三ヶ月から六ヶ月って言われてるんだ」

私は、父が何かの冗談を言っているのか、医者の言っている事を誤って解釈しているのだろうと考えた。末期癌と言っても、手術は成功したと言っていたではないか。その後の経過も順調だったはずだし、先週は子供をおぶって買い物にも行ってくれたではないか。母は何度か咳に血が混じっていた為、一年前に手術を受けた病院の医師に状態を伝えたのだが、原因が判りかねるという事で国立病院を紹介され、そちらに検査入院したらしい。

とにかく医者が家族に説明をするというので来てくれ、と言われ、指定された日に、父と弟と国立病院に赴いた。小さなオフィスに通された私たちは、母の肺を撮影したレントゲン写真を数枚見せられた。暗い背景に大きなぼた雪が降りしきっている写真のようだった。ぼた雪と見える白い影が癌細胞だった。私は再び、深々とした雪景色だけが見える、音の無い世界に入りこんでしまったように思えた。父は国立病院の医師に何かを色々言っていた気がする。恐らく今までの経過を述べる事で「こんなバカな話はない」と言いたかったのだろう。今までの診断にミスがあったとして、それは国立病院に勤める目の前の医師の責任ではない。それでも医師は、父の不満も憤りも、忍耐して聞いてくれていた。私は最後に一言だけ、「あとどれくらい、普通の生活が過ごせるのでしょうか」と聞いた。医師は「もう、普通の生活はできません」とだけ答えてくれた。私たちは礼を言い、医師のオフィスを出た。

(9/12)

私の怒り

長女は香(仮名)と名付けられた。香は利発で、機嫌の良い子供だった。顔は夫に似ていたので、穏やかな、おひな様のような可愛らしさがあった。子猫のようなソプラノの声で笑ったり、泣いたりした。声を聞くだけで、いつか読んだサン・テグジュペリの『星の王子様』に出てくる「五億の鈴が転がるような笑い声」を思い出した。香は清い天使のようだった。私はベビーカーを押しながら、天使に世界を案内している気持ちで、「小鳥さんが鳴いているね」「これはお花なの。綺麗でしょう。良い匂いがするでしょう。神様が作った世界は、きれいでしょう。」と教えていった。
母も、初孫である香を可愛がった。母は香を色々な人に見せたかったようだ。よほど可愛いかったのだろう。ところが私も、当時の夫も、自分たちの生活のペースを崩したくなかった。私たちのスケジュールは、まず夫の仕事のスケジュールに合わせられ、また香の睡眠や食事のスケジュールに合わせられていた。ところが私たちのアパートから徒歩で二分くらいの距離に住む母は、こちらの都合にお構いなしでやって来ては香と長く時間を過ごそうとした。もちろんそうした行為は、初孫を持った親として常識を逸脱したものとは言えない。ところが私は、初めての子供をとにかく大事に育てよう、私が育った環境とは出来るだけ異なった環境で育てようと必死だった。虐待から遠ざかる為には、なるべく父と母の影響を受けずに育てるしかないと単純にも考えていたのだ。
私は母のくだけ過ぎた言葉使いを嫌った。母が香を笑わせようとして、面白い音を立てたり、ふざけたりする事を嫌った。私は、母が香をからかったり、私の夫の悪口を言ったり、悪い言葉使いをする事を、一切許さなかった。「香はうちの大事な子供だから、そういう事は言わないでちょうだい」とハッキリ言った。もともと母は、自分に対する批判は一切受け付けられない性格だったので、突然始まった私の『独立宣言』には、当然のごとく逆上した。私は明らかに母とは違うやり方で子供を育てたいと主張し、暗に母のやり方を否定したからだ。母は、親としての自分の在り方が否定されたと感じ、さぞ悔しかっただろう。母は何度か怒鳴ってきたが、私は既に家を出ていたし、経済的にも実家の世話にはなっていなかった為、母が怒ったところで、香に会えずに困るのは母の方だった。私は母が怒りを爆発させ、しばらく顔を見せなくなる度にホッとした。

                                  
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私は母との距離だけではなく、父との距離の取り方にも困った。私が香を産み、父が祖父になったのだが、それでも父に対して抱いていた性的な不信感が無くなったわけではない。夕飯に招かれ、実家に夫と香を連れて行った時に、父が香をお風呂に入れたいと言い出した事があった。香は1歳になるか、ならないかの子供だ。それでも私は父を性的に信用できなかった。なぜ信用できないのか、その説明も出来なかった。当時の私の夫は、そういった事は一切知らされず、私の両親に関わっていた。私は母にも説明出来なかった。母はきっと怒り、事を大きくするだけだと思われた。私はどうして良いかわからなかったが、意を決して、自分も一緒に入ると言い出した。私は父に対して一瞥もせず、ひたすら香に集中した。父は、結婚して子供を産んだ娘が全裸になって一緒に風呂に入っている事を、何故か愉快に思ったようだ。面白い事であるかのように笑い、私をからかった。私は涙が出るほど悔しかった。悔しかったが、こうでもしなければ香を守れないと必死だった。
私は香を守る為に、両親との距離をとろうとし、その為に母との諍いが耐えなかったのだが、事情を知らない私の夫(当時)は私がなぜ絶えず母を怒らせているのか、理解できなかった。何が原因か覚えていないのだが、ある夜、母が怒りの電話をかけてきた。母は酔っていたのだろう。一旦怒鳴り散らして電話を切ったのだが、一時間程して再びかけてきた時には、夫が電話に出た。お風呂から上がったばかりの夫は、何が何なのかわからないまま、一時間近く母に怒鳴られた。母はこれで私たちと縁を切るという趣旨で電話を切った。
私は、初めて夫に事情を話した。夫は騙されたと感じたようだ。母娘は仲良いものと信じて、夫は私の実家近くに新居を設ける事にした。夫は「私が付き添っていますから、大丈夫です」という母の言葉を信じて、出産の待合室から退室した。「産後は、面倒を見てあげるから、実家でゆっくり休みなさい」という勧めを信じて、夫は私たちを預けた。ところが私の両親は、気軽に頼れたり、安心して関われる人々ではなかった。夫は心底驚き、裏切られたように感じ、私の父親と一対一で話をしようとした。夫は父を訪ね、「お義母さんが怒られているのですが」と切り出し、私たちの立場を説明しようと試みた。父は夫の話を聞き、私たちの言っている事に無理は無いと認めたようだ。ところが父は「そちらの気持ちはわかりました。ですがこの家では、正しいとか間違っているとかではなくて、お母さんが怒っていたら、誰も何も出来ません」と言い、夫を唖然とさせた。
私たちはその後、母から干渉されずに一年以上過ごした。誰かが自分に対して激しく怒っているという事実は、決して愉快なものではない。それでも精神的にはいくらか楽になった。
私が第二子を妊娠し、安定期を迎えた頃、実家から電話があった。電話をかけてきたのは、舞ちゃんの母親である叔母だった。私が実家に全く顔を見せず、よって香に会う機会を奪われた母が、叔母に頼んで、私の誤った考えを正そうとしたらしい。叔母はまず、母が怒っている事を述べ、近くに住みながら一年近くに渡って実家の両親を無視する事は異常だと訴えた。その上で私の気持ちを知ろうとし、「どう思っているの?」と聞いた。私は「今まで私は言わなかった事だけれど」と、私の家は普通の家ではない、普通の親子関係ではない、私は父には性的虐待を受けてきたし、母からは精神的虐待を受けてきた、と述べた。
叔母は、あまりにも予期していなかった返答に、言葉を失ってしまった。(母が怒っているからと言って、それが一体何なのだろう。私はもうこれ以上、この家が普通の家のようなフリをしたくない)そう考え、私は怒っていた。両親からの仕打ちを我慢するだけではなく、まるで彼らが尊敬や愛情、親しさに相応しい親であるかのようなフリを求められている事に対して、憤りを感じた。私は言いたい事を言い、今までのように、母からの赦しも和解も求めなかった。
叔母は何と言って良いかわからなかったらしい。「そういう事は、知らなかった」と返答しただけだった。私はそのまま電話を切った。全く知らなかった筈はないだろうと思った。母の暴言の数々、癇癪を爆発させる癖、酒乱の習慣など、知らない筈はないだろう。母の性質については親戚で知らない人はなく、叔母もそれで散々迷惑をかけられてきた筈だ。父の事であっても、父が通りすがりに胸を掴んだり、お尻を触ったりする事などは、叔母たちも嫌がっていたではないか。そこから少しでも想像力を駆使すれば、家族という密室の中でそれ以上の行為があった可能性を否定できるだろうか。いいや、ある程度は想像がつくものの、それらが何であるか、相応しい名称で呼んでこなかっただけだ。私は叔母に対しても憤りを感じた。叔母だけではなく、祖父母や周りの大人たち、良識あると思われる『善人たち』にも憤りを感じた。彼らは何かが行なわれているとある程度知りつつ、何の助けも差し伸べてくれなかったからだ。一体、幼い子供が虐待を受けていながら、それを見過ごす彼らの良さに、一体何の価値があるのか。
そのように憤りつつ、いや、これは叔母や周りの大人の責任ではないのだとも思った。悪が彼らから出ているのではないからだ。悪はどこから出ているのだろう。母からなのか。父からなのか。彼らとて、自分たちが何を行なったのか、ハッキリとした自覚はあるのだろうか。
その後何日かして、母から怒りの手紙が届いた。私が叔母に話した内容を、そのまま聞いた事、母の怒りだけでなく、自分の名誉がひどく汚されたため、法的手段に訴えると父も怒っている、と書いてあった。私は母からの手紙をそのままゴミ箱に捨てた。そのまま何か月か過ごし、私は第二子を出産した。

(8/12)

虐待に気付くまで

私が高校二、三年生の頃、母は更年期を迎えていたらしい。 そのせいで、という訳でもないのだが、 この頃の母の行動は常識を逸脱していたように感じる。一度、 ある考えが浮かぶと、それを制御したり、しばらく様子を見る、 という事が全く出来なくなった。

母の苦痛はどこから来ていたのだろう。 母は自分への批判は一切受け入れられなかったし、 少しの非難めいた言葉を聞き過ごす事も出来なかった。 どんな些細な否定的意見からも、徹底的に自分を守らなければ、 自分自身の存在が危うくなるかのように振る舞っていた。 だから全てにおいて自分の言う事を聞いてくれる父を必要としてい たのだが、あまりにも自分の言う事を聞く父を尊敬できず、 父の意見等は、結局は当てにならないと感じていたようだった。

家に帰ると母が何かの事で父に対して怒っており、 ビールを飲みながら、だんだんその怒りが悲しみに変わり、 なだめようと聞いていた父がウトウトし始めても、 それでも延々と泣きながら自分の人生の惨めさを訴えている事が多 々あった。時には明け方まで続いた口論にもならない口論、 涙の訴えのきっかけは何だったのだろう。母は16年も前に亡くな っており、今はその理由を直接聞く事も出来ない。 小学校低学年までの頃は、 私がいなければ母は不幸でなくなるのだと信じていたが、 高校生の頃には、もしかしたら他の要因もあるように思えてきた。

母の長時間に及ぶ説教において母が悔しそうに語ったのは、 自分の学歴の無さだった。 母は伯母と共に高校受験に失敗している。 第一志望に絶対合格するものと過信して、 滑り止めを受験していなかったらしい。母に言わせると、 自分よりも成績の悪い友達らが別の高校に進むのに、 自分たちは高校に進学できなかった為、 友人らが学校に登下校する時間帯は、出来るだけ外にいないで、 彼らに鉢合わせないようにしたらしい。母に言わせると、 祖父の次郎も、祖母の菊子も、 娘たちの教育に対して全く熱心ではなかったようだ。 似たような事は、隣に住んでいた叔母も語っていた。「まったく、 おじいちゃん(次郎の事)もおばあちゃん(菊子)も、 受験の前の日だっていうのに、勉強よりも、あれを手伝え、 これを手伝え、って言うんだから。」

高校の受験に失敗した事で、やがて母は働きに出た。 いずれは県立の夜間高校に通って、好成績で卒業したのだが、 それでも祖父母が高校、またそれ以上の学歴を持ち、 妹らも県立高校や女子大を卒業したし、自分一人が( 本当は双子の伯母も同様なのだが)高校に進めなかった、 という悔しさは残ったようだ。その悔しさは、特に「 絶対に馬鹿にされたくない」という意地や、或いは「 馬鹿にされている」という被害妄想に繋がったのかもしれない。 しかも私も裕福な子弟の通う私立の一貫教育校で学んだ為、 いよいよ娘から馬鹿にされるかもしれないという恐怖感に拍車がか かったように思えた。母はしばし、 例えば絵画や音楽の趣向のような些細な事柄にすら、「 お前は生意気」から始まって「 誰もお前の事をすごいとは思わない」「 お前よりもお母さんの方がもっとすごい」 などと躍起になっていたのだが、 まるで深い海で溺れている人が何とか足場を探すように、 私を自分の足下に敷かなければ安心できないようだった。

そう考えてみると、母は、私が悪い成績を取ると、 まるで自分が恥をかかされているかのように憤る一方、 私が母を超えて社会的に成功する事にも脅威を感じていたのかもしれない。そう仮定すると、幾度となく私を貶めるような行動をとったのも、ある程度説明がつく。 例えば私が三年生の時、 家庭科の料理実習で必要だった卵を忘れたのだが、 母は何度電話してお願いしてもそれを届けてくれなかった。「 同じ班の他の人たちに迷惑がかかるから」と言ってお願いしても、 母は「お母さんが今助ければ、忘れ物をする癖は治らないから」 と言って突っぱねた。結局は幸いなことに、 余分の卵を持ってきた友達に卵を貰って、 私の班は難なく過ごせたのだが、 一部始終を見聞きしていた友達は「本当の子供なの?」 と聞いてきた。

中学生の頃から、周りが塾に通い始めても、 決して塾には入れてくれなかった。家庭教師はついたが、 せいぜい宿題を見る程度の介入であり、殆ど役には立たなかった。 高校生の頃には、私の日記を読み上げ、( それだけでも酷いのだが) 私の好意を寄せていた人の家に連絡を取り、 向こうの気持ちを聞いてみる、などといった行為をやってのけた。 このように私は、家でだけではなく、 社会的にも恥ずかしい思いをさせられたりした。

一番悪質であったのが、 私がカレッジから夏休みに帰って来ていた時に、 家でアルバイトをしていた親戚の若い男性に、私を「 買い物に連れ出し、ホテルに連れ込み、 強姦をする一歩手前で止めて、『生意気に振る舞っていると、 こういう目に遭うんだ」と言ってやって」と頼んだ事だろう。 親戚の男性は「第一、 ボクとそんなところについて来る訳ないじゃないですか」 と断ったらしい。これは母本人から「お母さん、 そう頼んだんだけれど、断られちゃった」と聞かされたので、 私には言葉の出ない程、ショックだった。思えば、 この事がキッカケで、私は母の言動が、 単なる怒り過ぎや厳しい躾では無い事に気付いたのだ。

尤も、実際に虐待であった事に気付くのは、 それからずっと何年ものあと、私が結婚、出産し、 赤ん坊である長女を抱いていた時だ。

実は長女出産の際、初産という事で、出産にも時間が掛った。 母は分娩の待合室に、私と一緒に何時間も待機しながら、 陣痛に苦しむ私に怒りをぶつけ始めた。要は時間がかかり過ぎる、 という不満だった。「もういい加減にして!お母さん、 もう疲れちゃった。いったい何時間かかるの。大体お前は、 何だって真剣さが足りない。 だから子供だって生まれないんだから」と怒りをぶつけてくる。 時折様子を見に来る看護婦に対しては丁寧に接し、私の夫(当時) には「私が付き添っていますから、大丈夫です」と言いながら、 私に対しては、小声で激しい怒っていた。 私は陣痛に苦しみながら、母に「もう帰って良いから」 と一人にしてくれるよう頼んだ。母は「だって、お母さん、 感動の場面にいたいから」と言い、ブツブツ不満を述べていた。 長女が生まれたのは、それから30分くらい経っての事だった。

やっと長女が生まれた後も、私は親への感謝が溢れるどころか、 親の見舞いがイヤでイヤで仕方なかった。母は私の夫(当時) について「気が利かない」と悪口をこぼし始め、 父に至っては面白がって出産後の便秘で座るにも苦しい私の尻部を ぴしゃりと叩き、 痛さに口がきけない私の様子が面白くてたまらないかのように笑い 転げていた。母は私の退院後、 実家で世話を受けるのが当然だと命令するのだが、 その滞在とて高額有料の滞在であり、 私は例え自分で全ての事をしなければならないとしても、 自分たちだけで静かに退院後の生活をこなしていければどれ程楽だ ろうと考えた。ところが、そうした考えは、 母にとって自分の親としての権威や評判を傷つけるものであったよ うで、到底受け入れられない。私は自立し、結婚し、 子供を産んでも、まだ母の支配下にあったのだ。そうして私は、 母の怒りや暴言に嫌な思いをしながら退院後の二週間を実家で過ご し、夫とのアパートに帰って行った。
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子供というものは、天使のように笑う。 静かな生活で子供の眠る姿、笑う姿を、指を動かしたり、 あくびをしたりを飽きることなく何時間も見つめて過ごした。 子供が泣いても、赤ちゃんの仕事、として苦にはならなかった。 そうやって長女を大事に抱きしめ、世界がこの子の為に、 優しい世界であるように祈ったものだ。 出来るだけ優しい言葉で話しかけ、言葉の分からない長女に、「 ママの大事さん、ママの宝ちゃん」と呼び掛けた。 むかし舞ちゃんが、そう呼びかけられていた事を思い出した。 そうするうち、ふと、 毎日のように母から浴びせられてきた暴言の数々が思い出された。 これらは決して「お母さん、怒り過ぎちゃった」 では済ませられる類のものではないと、初めて気付いたのだ。

私は長女に「ママはもうすぐ死んじゃって、 あんたは後悔するから」と教え、 悲しく不安な思いをさせるだろうか。 どんなに腹が立ったとしても「死ね!死ね!死ね!」 と怒鳴り続けるだろうか。長女が強姦の恐怖を味わうように、 いつか誰かにそれを頼むだろうか。これらの問いかけに対し、 私は真剣に考えてみる必要すら感じなかった。これらの暴言は、 単なる怒りではない、虐待なのだ。私は虐待されてきたのだ。 首がやっと座った長女を抱きしめながら、 溢れこぼれる涙をどうする事もできなかった。 抑えようと思っても、涙はどんどん溢れてくる。私はやっと、 自分の為に悲しいと思ったのだ。けれど、 私が悲しそうな顔をすれば、長女は自分も悲しそうな顔をする。 私は子供が悲しい思いを味わう事が耐えられない。

私は長女の顔を見て、ニッコリしてみせた。「可愛い。 宝ちゃんは、可愛いママの大事さんね。天使さんね。」

長女の柔らかい肌着は、洗濯とミルクの匂いが混じり、甘く、 優しい匂いだった。

(7/12)

舞ちゃん

中学生二年生だった冬に、隣の白い洋館に住む叔母夫婦に、待望の赤ちゃんが生まれた。結婚後8年目にしてようやく生まれた女の子の赤ちゃんで、叔母夫婦は、それこそ目に入れても痛くない程、可愛がった。赤ちゃんは舞ちゃん(仮名)と名付けられた。

舞ちゃんは、黒目がちの大きな目が可愛い女の子で、私たちはみんな舞ちゃんが大好きだった。叔母が舞ちゃんを宝物のように大事に、慎重にベビーバスで洗いながら、「可愛い舞ちゃん、大事な舞ちゃん」と楽しそうに愛情を込めて話しかける姿を見て、私は「親というのは、こういうものなのか」と知ってビックリした。

舞ちゃんは生後一か月検診の時に、「心音に雑音がある」という事で、専門の病院に入院する事になった。愛娘の状態を心配し、悲嘆にくれた舞ちゃんの父親である叔父について、「可哀そうに。あんまりにも泣いて、顔が別人のようになってしまった」と母が漏らしていた。舞ちゃんの入院する病院にお見舞いに行った事を覚えている。舞ちゃんは大きな目をくりくりさせ、叔母に抱かれながらガラス越しに笑っていた。

舞ちゃんはしばらくして退院した。叔母夫婦は「うちの子は、世界で一番可愛い」と公言し、「宝ちゃん」と呼んだり、「可愛いベイビー」話しかけたりした。叔母は、舞ちゃんには難にしても、センスの良い良質なものを与え、離乳食も時間をかけて手作りした。舞ちゃんが一歳になる頃には、殆ど毎日、叔母に連れられて朝10時くらいから私の家に遊びに来る事になった。お昼を食べ、時にはお昼寝をして帰って行くのだが、私は舞ちゃんのオシメを替えたり、お昼寝に付き合った。舞ちゃんは本当に可愛かった。おしゃまな女の子として、叔母の口調に真似て話を始めるのも可愛らしかった。舞ちゃんが二歳くらいになると、買い物にも連れて行った。私の家や叔母夫婦の家から買い物に行くには、長い坂を昇り降りなければならない。時折おんぶをせがむ舞ちゃんは、何としても守ってあげたい小さな存在だった。

小さかった舞ちゃんを巡るエピソードとして、母が香港へ行くために購入したばかりのスーツケースに舞ちゃんを入れ、暗証番号を設定した上でカギをかけた事があった。私はその場にいた筈なのに、その時の記憶がハッキリしない。舞ちゃんの母親である叔母も祖母(菊子)もその場にいたようで、誰も、母の悪ふざけと考えていた。もちろん母とて、舞ちゃんをずっと閉じ込めるつもりは無く、カギをかけた直後に開けようとしたらしいが、暗証番号が一致しない事に気付き、初めて慌てだした。舞ちゃんは「おばちゃーん、あけてー」と中から呼び、たまたま仕事帰りの叔父が姿を見せた事で、母は更に焦ったようだ。幸いなことに、母が暗証番号を何度目かの試みののち思い出し、舞ちゃんは無事に中から出てきた。

この時の事は、家族親戚の間で語り草をなっていたので、事実関係には間違いは無いようだ。母も舞ちゃんを可愛がっていたのだから、舞ちゃんには「怖い思いをさせて、ごめんね」と誤ったかもしれない。私は、舞ちゃんもそうだが、特に母にとっては義理の弟にあたる叔父について、直接強く言えない分、さぞ嫌な思いがしただろうと気の毒になった。

母と叔母の関係は、普通の姉妹関係よりも、ずっと一方的な上下関係でもあった。気が強かった母は、少しでも自分の非を認めたり、批判に一応の耳を傾ける事をしなかったし、言葉や態度も威圧的だった。叔母は、母といて楽しく時間を過ごせる事もあったと思うのだが、妹とは言え、既に別の家庭を築いている叔母を自分の子分のように扱う母に、時折辟易していたと思う。母と叔母の関係が気まずくなると、舞ちゃんは遊びに来られなかったし、私が叔母の家に行くことも禁じられた。そういう時は、母の気の強さが本当に恨まれた。

よくよく考えて見ると、母は色々な人と諍いを起こした。大抵、誰かが言った批判めいた言葉に母が過剰反応を示し、その人を家に呼びつけ、その人の考えがいかに誤ったものか、何時間も説教するというパターンがあった。そうしたパターンの被害者の中に、父方の祖父母もあった。

父方の祖父、昭彦(仮名)と祖母妙子は、どういう訳だか、母方の祖父母の敷地内にある小さな家に住んだ事があった。母方の祖母である菊子と、妙子が姉妹同士なので、アパート代の節約をする事が目的だったのかもしれない。私は昭彦と妙子の家に遊びに行き、たくさんあった妙子の本を読む時間が大好きだった。祖父は優しく穏やかであり、祖母も歴史の本を読む趣味を共有できる孫が嬉しかったようだ。ところがある夜、母が自分の義理の両親を呼びつけ、延々と説教した事がある。勿論、私に対するような怒り方では無いのだが、「ちょっと、そこに座って下さい」というような態度で、ビールを飲み、またタバコを吸いながら、義理の両親に向かって延々と話をしていた。昭彦はしばらく母の話を聞き、「よし、わかった」とキッパリ言い、すっと立ち上がった。そして「今まで世話になったね。有難う」と威儀を正して礼を言った。いつも着物姿であった妙子は昭彦を見上げ、自分もゆっくり立ち上がった。残念そうだったが、何を言っても仕方がないという諦めの表情を見せていた。私には何があったのかわからなかったが、気が付くと、祖父母は違う市に引っ越しをして行った後だった。私は、息抜きの空間を与えてくれた祖父母がいなくなって淋しくなったが、そう言っても何も変わらないので諦めた。

また母は、自分の母、菊子の妹であるアンツに電話をして誤解を解くよう、父に命じた事があった。アンツとは勿論ニックネームであり本名では無いのだが、米国に留学した後、米国の大学で教え、永住権を持ち、独身を保ちながら日米を行き来していた彼女を、親戚は英語の「Aunt(叔母)」から、そのままアンツと呼んでいた。母に言われるまま、当時日本に一時帰国していたアンツに電話した父は、しどろもどろながら、自分が決して妻の尻に敷かれている訳では無い事を説明した。途中、何か言い過ぎたのか、或いは言い足りなかったのか知らないが、傍で一部始終を指導していた母に小声で怒鳴られる事がしばしあった。言っている事とやっている事がまるで逆なのだが、母は真剣だった。きっとアンツは、母の気が強い事、父が言いなりになっている事を、それとなく漏らしたのだろう。アンツの言葉は母の心に突き刺さり、母はそれを以て自分の言動を顧みるとか、或いは違う意見として聞き流す事など全くできなかったようだ。アンツはしばらく父の言葉に耳を傾けた後、自分の発言には、何も深刻な意味が無かった事、二人とも幸せならばそれで構わない事を父に伝えた。涙を流しながら悔しがる母の姿を見て、母がアンツの言葉から逃れられず苦しんでいる事を理解できた。

舞ちゃんが二歳か、三歳くらいの時に、舞ちゃんに弟が出来た。叔母が出産のために入院している間、舞ちゃんは毎朝、叔父が出勤前に私の家に連れてきた。舞ちゃんは増々おしゃまで可愛い女の子になったのだが、叔母が入院していた期間は、舞ちゃんにとっても淋しい時だったのだろう。何故か突然聞き分けが悪くなったことがあった。それ以前も、眠くなったり、疲れていたりすると機嫌が悪くなる事があったが、この時は明らかに私への反発をし始めた。私は訳が分からなかったのだが、舞ちゃんに「ちゃーちゃん(舞ちゃんは私をこう呼んでいた)なんか、バカ。ちゃーちゃんなんか、キライ」と目に一杯の涙を溜めて言われた時、ふと、舞ちゃんはママに会えなくてたまらなく淋しいのかもしれない、と思った。

「舞ちゃん、ママがいなくて淋しいの?」と聞いてみた。舞ちゃんは怒った顔をしつつも小さく頷いた。(舞ちゃんは、大好きな母親とずっと一緒にいられなくて淋しいんだ。)普通であるなら簡単に理解できる事なのだが、当時の私には、すぐには思いつかない事だった。

舞ちゃんに「おいで、抱っこしてあげるから」と言うと、舞ちゃんは声をあげて泣きながら走ってきた。私は、大きな声をあげて泣いている舞ちゃんを抱きしめ、「ママはもうすぐおうちに帰ってくるからね」と言ってあげた。泣き続ける舞ちゃんを抱きしめ、舞ちゃんの背中をさすりながら、私は心から「いいなぁ」と思った。その時、改めて、従姉妹同士とは言え、私の生い立ちと、舞ちゃんのそれが違う事に気付いた。舞ちゃんはいつも「宝、大事」と呼ばれていたし、舞ちゃんも自分が愛されている事を知っていた。叔母だけではなく、叔父も舞ちゃんを溺愛していたし、舞ちゃんは叔父の事も大好きだった。舞ちゃんが両親に対して感じた絶対的な安心感や信頼感情は、私には知り得ないものだった。

叔母と舞ちゃんの弟が退院してしばらくすると、母と叔母の間に小さな衝突が繰り返されるようになった。叔母とすれば、四人家族となり、今まで以上に自分たちのペースや空間が必要となったのだろう。それは決して責められる事では無いのだが、何事でも自分の思い通りにならなければ気がすまない母にしてみれば、叔母の意見は自分の正しさへの身勝手な挑戦としか受け取れなかったようだ。

ある日、母と叔母の関係は、祖母、菊子の処遇を巡って決定的に悪化してしまった。当時、祖母は私たちと同居していた筈だが、祖母がこぼした何気ない愚痴が原因で、母の双子の姉である東京に住む伯母が母を批判した。その批判に逆上した母は、自分の母親を追い出し、祖母菊子は、隣にある叔母の家に住むこととなった。祖母として見れば、大したことの無い愚痴だったのだろうし、伯母としてみても、どういう事なのか事情を聴きたかっただけなのかもしれないが、母は自分への言われなき誹謗中傷と真剣に受け取り、祖母と伯母に対して許せない気持ちになったようだ。私たちの家を出るとき祖母はガッカリし、涙を浮かべていたように記憶している。それから少ししばらく、私が叔母の家に行くことは許されていたが、それとなく祖母の肩を持った叔母に母が怒り、二人の関係は絶交状態となった。

私は母に「もう舞の家には絶対に行っては行けません」と言い渡された。私には舞ちゃんに会えない事が悲しかった。時折舞ちゃんは、洋館のブラインド越しにこちらを見上げ、そっと手を振る事があった。母は舞ちゃんを遊びに来させない叔母を批判したが、原因を作ったのは母であった。

この頃、高校生となっていた私には、母の癇癪も、怒りも、怖いというよりも迷惑な存在となっていた。母が少しの批判めいた言葉さえ看過できない為に、どれくらいの関係が台無しになっただろう。私とすれば、父方の祖父母も、母方の祖母も遠のけられてしまった。妹のように可愛がっていた舞ちゃんとも会えなくなってしまった。

それだけでは無い。私は何度、突然爆発する母の癇癪の為に、息も出来ない程、胸が痛く、苦しくなっただろう。母は朝起きて、突然怒る事が多々あった。その前の夜には機嫌よく過ごしていても、である。厳しい目で睨まれ、「お前なんか死ね!」「ブス!」「大っ嫌い!」と怒鳴られ、罵られると、朝食など喉を通らない。しかし、食べ残せば、母はまた怒るのだ。少しでも嫌な顔をすれば、「生意気な態度を見せた」として顔や頭を叩かれるので、出来るだけ落ち着いて、丁寧に接しなければならないのだが、その為には、ある程度心を感じさせない努力を必要とした。現実逃避というか、実際に起きている現実について、実際には起きていないか、或いはまるで夢の出来事であるかのように否定する努力だ。私はそうした努力を身に着け、朝学校に行くまでの時間を過ごす事が多かった。     

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そうは言っても、私には、母がなぜ怒鳴っているのか、なぜそこまで私を憎むのか、どうしてもわからなかった。母には何度も「死ね!」と怒鳴られたが、どうしてだろう。舞ちゃんの母親である叔母が、舞ちゃんを叱る事はあっても、それでも「死ね!」「ブス!」「お前なんか、大っ嫌い!」と罵るだろうか。私は何か、特別に悪いのだろうか。あまりの惨めさに、実際に死ねたらどれほど楽になるだろうと考えた事もある。けれど私にはどんなに「もう生きているのはイヤだ」と思っても、死ぬための方法がなかった。ただ何となく、「もうすぐ私の人生は終わるから」と自分自身に約束し、生きる事からの解放を期待して待つしかなかった。打ちのめされた時の心は重く、痛い。息をするにも、酸素を吸う事が難しく感じられる。それでも、そうした中で目につく、玄関先に植えられた梅の木の赤い蕾が朝露を光らせ、何とも美しく感じられたりもする。青い空が高く、清々しく感じられたりもする。隣の洋館で歌を歌う、舞ちゃんの楽しそうな声もする。ただ、そうした美しさや優しさは全て、他の人の為であり、私の為では無いように思われた。

ある早春の朝、いつものように母にさんざん罵られたあと家を出て、今まで呼吸を忘れていた人が息を吸い込むかのように深呼吸をしながら坂を下ろうとすると、母が玄関から飛び出し、私の名前を呼んだ。私が母を見上げると、母は目に涙をいっぱい溜めて、「これ、あげるから」と言って、私に向けて一万円札を何枚か投げた。

恐らく母は、あまりにも怒鳴り、罵った事を後悔し、謝りたかったのだろう。ところが母には、謝るという事がいつの場合にも出来なかった。もし謝る事が出来たら、母自身もどんなに楽だっただろう。母は、謝るという選択肢を全く遮断してしまった為に、得られたはずの赦しさえ拒絶してしまっていた。

母が投げた何枚かの一万円札を拾いながら、私は「有難う」と言った。母を見上げて、私も泣けてきた。母があまりにも可哀想だったのだ。私は、悪い事をしていないのに、いつも謝らせられている気がした。勿論、悔しいし、時には悲しくなった。しかしながら、謝りたくても謝れない痛みもある事を、私は涙で一杯になった母の目を見て知った。もしかしたら、そうした痛みは、謝罪を強制される痛みと同じくらい、あるいはそれ以上苦しいものなのかもしれない。

母が突然の怒りをぶつける事はその後何度もあったのだが、母の人生のつらさを最もよく表す出来事として、この朝の事は、悲しく思い出される。

(6/12)

チルチル、モコ、ミルク

ミチルがまだ生きていた頃、小学校からの帰り道、私は男の子数人が、段ボールを囲んでワイワイと騒いでいるのに出くわした。何をしているのだろうと、私は友達と覗いてみた。段ボールの中には小さな子犬が三匹いた。一匹は黒く光る短い毛の子犬で、もう一匹はヨークシャーテリア―のような子犬だった。三匹目がどんな子犬だったか、今となっては思い出せない。子犬たちは鼻をクンクン鳴らしながら、尻尾をちぎれる程振っていた。男の子たちは、これらの子犬を誰かから譲り受けたらしいが、これから近くの川に投げ入れると脅していた。私はこの子犬たちが川でおぼれる様子を想像し、何とかしてやりたくなった。

躊躇いがちに、「棄てるんだったら、ちょうだい」と言ってみた。勝手に生き物を拾ってきたら、母は何と言うだろう。そうでなくても家には既にミチルがいたし、私は普段から叱られてばかりだった。ただ、川に捨てられる運命の子犬たちを見捨てる事は

「いいよ。どれでも好きなの取って」

男の子の一人が選ばせてくれた。私は、毛の長い、ヨークシャーテリア―に似た雄の子犬を選んだ。子犬というのは、どうして誰にでもすぐ懐くのだろう。グレーと茶色の毛を持つ子犬は、小さな子供が母親の腕の中で安心するように、私の腕の中に落ち着いた。

私の予測に反して、母は子犬を飼う事にすぐ承諾した。子犬はチルチルと名付けられた。

チルチルが飼われてからすぐに、ミチルが轢殺されてしまった。父がミチルの墓に置いたツナの缶詰は、チルチルが平らげた事を覚えている。父は私がミチルの墓の前にうつ伏して号泣していた時、さすがに可哀想に思ったのだろう。胡坐をかき、タバコをふかしながらも涙を浮かべていた。

今にして思えば、父は自分が理解できる範囲の事においては人間的な行動をする事が出来た。但し、それ以外の事については、一々母から説明を受けなければ、何が正しい行動で、何がそうでないか、全く判断できないようだった。恐らく父は、戦後の極めて貧しい家庭環境において、倫理を教えられたり情緒的成長を遂げないまま大人になったのではないだろうか。

父は母のように泥酔して他人に迷惑をかけたり、よほどの事が無ければ突然理不尽な怒りを他人にぶつける事は無かった。母のように散財したりせず、実によく働いた。父だけが深夜を過ぎても働く事はしばしあった。以前も書いたが、祖父には教育、教養があり、祖父は常に紳士的であったが、働く事をしなかった。そして父は祖父の正反対であった。経済的に家族を養うという義務感は、父が祖父から望めなかった事だが、父は自らの飢えを通して、自分は家族を飢えさせる事をしないと決意したのではないだろうか。その通り、私たちは経済的に裕福だった。

チルチルを飼ってから、何故かもう一匹の子犬が飼われる事になった。母が知り合いから二匹の雌の子犬を譲り受けたようだ。母は、二匹いたうちの一匹は我が家が引き取り、もう一匹は隣に住む伯母が引き取る事になったと言って、私に好きな方を選んで良いと言った。私は、白い毛がふさふさしていて、とても綺麗な方を選んだ。この子犬はモコと名付けられた。

ミチルが叩かれたり、叱られたりする中、チルチルやモコが暴力を振るわれる事は無かった。恐らく外に住んでいたからだろう。ミチルが死んでしまった後にモコが来てくれた事は嬉しかった。チルチルが穏やかで大人しい性格であったのに対し、モコは神経質であり、好き嫌いがハッキリしていた。チルチルとモコは成犬となり、子犬を設けた。子犬はだいたい4匹くらい一度に生まれた。

チルチルとモコという両親に囲まれて育つ子犬たちは、これ以上は無いというほど可愛らしかった。小さな子犬が母親であるモコの乳を吸ったり、父親であるチルチルのもとで眠ったりじゃれ合う姿は、いつまで見ていても飽きなかった。彼らの小屋は、一階のトイレの窓の下に設けられ、黒い鉄のフェンスで囲われていた。私がトイレの窓から首を出す度に、彼らは家の壁に前足で寄りかかり、小さな尻尾がちぎれてしまうくらい早く振った。私が「チルチル」「モコ」と呼ぶと、それぞれ遠吠えのように吠えた。子犬は大抵、白か、茶色、黒だった。はじめてチルチルとモコの間に生まれた時、私と弟には、それぞれのお気に入りがあった。私は睫毛が長く、ウエーブがかった白い毛のマルチーズのような子犬を「ミルク」と名付け、可愛がった。弟はミルクよりも小さい白い子犬を可愛がった。子犬たちは次々に別の家庭に貰われて行き、最後の二匹はミルクと弟のお気に入りとなった。
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ある時、従姉がこの二匹のうちの一匹を引き取りに来た。この従姉は母の一番上の姉、祖母の長女であった洋子(仮名)の長女である。従妹は母親であった洋子に似て、目鼻立ちがハッキリしており、とても綺麗だった。どちらの子犬を従妹にあげるのかの判断は、私と弟に任せられた。私も弟も、自分が可愛がってきたお気に入りを引き渡す事はしたくなかった。母は決められないならジャンケンをして、負けた方の子犬をあげなさい、と言い渡した。私たちはそれぞれ必死の思い出、ジャンケンをした。最初は引き分けだったが、次に弟が勝った。

「勝った!」と喜んだ弟を前に、私は目の前が暗くなったような気がした。声が出なかった。母は弟が勝った事を知り、「じゃあ、ミルクをあげなさい」と命じた。弟が喜びでホッとしている一瞬の隙をついて、私は弟の子犬を抱き上げ、従姉に渡した。事の顛末を全く知らない従姉は「この犬を貰っていいの?」と喜んだ。私は「うん。良いの。貰ってあげて」とだけ答えた。あっけに取られた弟は、自分が騙され、子犬を取られたショックに泣き出した。母は、泣き続ける弟をしばらく慰めた。弟は従姉が帰ってからも、自分の部屋の真ん中に正座し、泣き続けていた。その姿を見て、さすがの私も悪い事をしたと思った。弟の頭を撫でて、出来るだけ謝り、慰めようとした。何年かあと、私は弟にした、このひどい仕打ちを謝りたくなり、「あの時の事、覚えている?」と聞いた事がある。弟は全く覚えていなかった。彼の記憶に残っていなくても、私の記憶には、日が暮れても自分の部屋の真ん中で涙を流し続ける弟の小さな姿がある。


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 一階トイレの窓から見下ろすと、チルチル、モコ、ミルクたちはいつも大喜びで、自分の名前が呼ばれる事を待った。犬たちは無償の愛そのものだった。すっかり惨めな気持ちになっている時でも、犬たちの喜ぶ姿を見ると、私が少なくとも彼らには愛されている事、喜ばれている事が伝わってきた。母に「死ね!」「出て行け!」と怒鳴られたり罵られると、私は犬小屋に出かけ、彼らによって大歓迎され、慰められるのが常だった。泣いている私の顔を彼らは我先にと舐め、涙を拭った。私は泣きながら、彼らの頭を撫で「いい子だね」と話しかけるのが精一杯だったが、犬たちにとっては、私がいるだけで大感激だったようだ。

私はフェンスに囲まれた犬小屋の辺りで、夜星を見る事が時折あった。もちろん、母に叱られ、家から放り出された為に、外に佇むしかなかったのだが、一人でじっと星を見上げながら、色々な事を考えた。怒鳴られたり、叩かれたりして悲しい現実も、本当は夢の中の出来事ではないだろうか。それとも空の遠くには、母がいつか話した神様がいるのかもしれない。母は私が悪い事をしたり、嘘をつくと、「神様が見てます!」と言って脅した。それまで私は何度となく「人が死ぬと神様になる」と教えられてきた。実際、家の仏壇には「ご先祖様」と呼ばれる人たちの古い写真が幾つもあった。「ご先祖様」たちは、時として「仏様」とも呼ばれていた。「神様」呼ばれる事もあった。ところが私には、死んだ人である筈の神様になぜ目が見えるのか理解できなかった。一度その疑問を母に聞いた事がある。母の答えは覚えていないのだが、その時に、何となく神様と仏さまは違う人なのだと感じた。神様の事については、どこにいるのか、誰なのかもわからなかったし、それ以上その話をしなかったのだが、誰もいないのに、いつも見ている人である、というふうに漠然と理解していた。そして叱られた後、一人で悲しく夜空を見上げていると、神様という存在が、実は今も見てくれているかもしれないと微かに思えたのだ。そして神様の見方は、父や母の見方とは、うっすら違う気すらした。

そうした夜、チルチルや、モコ、ミルクらは、叱られて家の中に入れてもらえない私を、しばらく天使のように囲んでいた。

家族の中でのヒエラルキーで私が一番下に位置していた事は以前にも書いた通りだが、ミチルが私より少し低い位置であったように、犬たちも私の下に存在していた。おぼろげな記憶によれば、犬小屋のあった一階トイレの外は、以前は地面だった気がするのだが、どういう訳か父がある日、そこに白いセメントを敷いた。地面だと、雨の日に犬小屋の辺りがぬかってしまうという配慮だったのだろうか、或いは雑草が生えて仕方がない、という中での考えだったのだろうか、今となっては確かめようがない。そのセメントが新しいうちは、確かに改良に思われたのかもしれない。しかし犬小屋の辺り一辺にセメントを敷くという策は、犬たちのフンや尿が行き場なくそこに溜まり、やがては犬や犬の鎖に付着するしかない現実にの前に、全くの悪策に思われた。

三匹の犬を飼っているものの、私たちは、彼らを散歩させたことをしなかった。小学生であった私は、犬が散歩を必要としている事すら知らなかった。犬たちの世話をしなさいと言われても、母が期待していたのは、時折エサと水をやる事だけだった。散歩もさせてもらえない犬たちは、毎日毎日、セメントの上で用を足すしかない。雨が降れば、尿もフンもセメント一面に広がり、これらを避けて歩く事は不可能となった。夏の湿った空気で蒸されたフンや尿の匂いも、ハエや蚊にとっては良いだろうが、潔癖症の私にはつらいものがあった。しかも散歩をさせてもらえず、鎖に繋がれた犬たちは、時折鎖を繋げたポールに絡まり、身動きができない状態で横たわっている事があった。何とか絡まった鎖を解き、助けてやりたいと思うのだが、この頃の犬たちは中型犬と成長しており、子供であった私以上に力があった。普段散歩をさせて貰えない為、エネルギーが有り余っているのか、糞尿でまみれた鎖の絡まりに少しでも余裕が生じると、また急に動いて絡みを解こうとする私の指を締め付けたり、動いた拍子に私を押し倒す事があった。糞尿で汚れ切った鎖に指を挟まれたり、足の踏み場もなく汚れたセメントの床に押し倒されると、いくら犬が大好きと言っても、さすがに悔しく、泣きたくなるのだった。

私には、大好きな犬たちの為であっても、出来ない事ばかりだった。彼らの食べ物は私たちの食べ残しであり、時おり既に腐ってひどい悪臭を放っていた彼らは獣医に診せられる事なく、蚊の多い夏にも薬を与えられなかった。水やりですら、時には忘れられたり、省かれたりした。しばらくすると彼らは、セメントで覆われた犬小屋から、それぞれ一匹ずつ、別の場所へ移動させられた。家から隣の叔母の家に行く途中の階段から見える位置にミルクの小屋が建てられ、そこから少し離れた位置にチルチルの小屋が建てられた。モコは一匹だけ、更に離れた位置、家からも途中の階段からも見えない位置に隔離された。私は学校に行く道に時折階段を通って行く事があり、その時にはミルクとチルチルの姿が見えた。彼らは私の姿を見ると喜んで尻尾を振り、関心を引こうと吠えた。モコは彼らの鳴き声を聞き、私の近い事を知ったのだろう。独特の遠吠えのような吠え方をした。私は彼らを可哀想に思ったものの、エサをやったり、新しく水を入れてやったり、鎖に絡まっている姿を見れば助けてやったり、時折彼らの頭を撫でてやる以上の事はしなかった。恐らく当時の私は、自分自身、打ちひしがれた気持ちを抱え、毎日過ごしていたのだろう。

ある夏の朝、私はどういう訳だか、ミルクが病気であり、死にかけている事を感じた。なぜそう感じたのか記憶に無いのだ、夜明けよりも早く目が覚めた私は、ミルクのもとに行った。ミルクは静かに地面に横たわっており、私の声を聞くと、顔を上げずに尻尾だけを振った。

私はミルクを鎖から外し、両腕に抱え、白い玉砂利の敷かれた庭の長椅子に腰かけた。ミルクは鳴く事も、動く事もせず、時折私を見ては尻尾を振ろうとした。朝日がミルクを金色に照らしてゆく間、私はミルクを撫で続けた。ミルクはゆっくりと、私の腕の中で、そのまま息を引き取った。私は大粒の涙をミルクの白く、汚れて、絡まり切った毛の上にいつまでもこぼしていた。世界中から音が無くなってしまったように、或いは音の無い世界に一人残されたように感じた。どれ程大声で泣いても、それが音にはならないのだ。ミルクの黒い目を閉じてやりながら、心の中で私はミルクに謝っていた。私が無理やりにでもミルクを引き取る事をしなければ、ミルクはもっと幸せに、長生きしたに違いない。私さえミルクを可愛がらなければ、ミルクは幸福でいられたのだ。これはミルクに限った事ではない。チルチルにせよ、モコにせよ、彼らがよそへ貰われていった犬たちと比較して短命であった理由は、私が引き取ったからなのだ。私は何という可哀想な事を、犬たちにしたのだろう。

私は何かがミルクの死と共に死んでしまったように感じた。私は自分自身にこう言った事を覚えている。

「私はもう、こんなに悲しい思いには耐えられない。これはもう、私に耐えられる悲しみではない。」

それから私は、その日の事を何一つ覚えていない。その日の事が、小学校高学年の事だったのか、或いは中学校に入った後の事だったのかの記憶すら無い。その後、チルチルとモコはどうしていたのかも、全く記憶に無い。ただ何年かした後、母が「モコが一番長生きをした」と、何かの拍子に言った事だけを覚えている。私は余りにもつらかったミルクの死によって、残されたチルチルやモコに全く関わらなくなったのだろうか。或いは、それからの人生そのものを、あまり記憶に残らないように、他人事のように生きてきたのだろうか。

いずれにせよ、その後一匹だけで生きただけではなく、一匹だけで死んでゆき、ミルクが死んだあとの記憶すら刻んでもらえなかったチルチルとモコの哀しさを思うと、およそ人が考えつくどのような慰めの言葉も、私には虚しく感じられてしまう。

 

(5/12)

 

ミチル

 私の家族には、上下関係、もっとハッキリと言えば、苛めのヒエラルキーのようなものがあり、母が頂点に存在する一方、私は常にその底辺にあった。母は普段、掃除などの家事を、月々いくらか支払って、祖父の養女である律子伯母に任せていた。律子伯母は、別の市にある大きなお寺に生まれ、祖父の遠縁にあたる親戚だという。伯母は毎朝8時半にやって来て、12時のお昼を食べて帰って行った。私はあっけらかんとして朗らかな伯母が掃除機をかける音や、洗濯物を干す姿が大好きだった。

伯母の負担した家事は、掃除機かけ、洗い物、洗濯に限られており、何故かトイレの掃除は含まれていなかった。専業主婦でもあった母が何故トイレの掃除をしなかったのかは判らないが、年に一度、大掃除の時に、ふだん誰も掃除しないトイレの掃除をするのは、当時小学生であった私の仕事だった。神経質であり、また潔癖症であった私には、ふだんから家のトイレを使う事に恐怖感を感じたが、汚れたトイレの掃除を命じられる時には、足がすくんでしまうようだった。「トイレ掃除をしなさい」と言われても、やり方そのものがわからない。学校のトイレの床はタイルで、しかも排水溝があったためホースで水がかけられたのだが、家のトイレの床はビニール材を使っており、排水溝は無く、ホースなど使って良い筈が無い。私にとって家のトイレは魔窟のように恐ろしい存在であった。

一度だけ、率先して家で最も不衛生であった二階のトイレを掃除した事がある。事の起こりは、飼っていたシャム猫が、トイレの床で下痢をしてしまった時だ。父も母も怒り狂って猫を追い回した。ミチルと名付けられたシャム猫は、もともと東京に住む母の双子の姉が知り合いから押し付けられた捨て成猫だった。私は動物が大好きであったので、しなやかで柔らかい猫を可愛がり、まるで突然親友が出来たように喜んだ。この猫は、メーテルリンクの童話『青い鳥』から、ミチルと名付けた。

ミチルは私にだけは懐いた。私が父や母のように目の敵にしなかったからだろう。もともと捨て猫であったミチルは、下痢や嘔吐を繰り返した。きっと病気だったのだろう。両親はミチルを獣医に連れていったり、薬を与える事はおろか、与えた食べ物も家族の残した残飯であり、時には腐っていた。こうした原因もあってか、ミチルはトイレに失敗する事も多かった。しかも私には、猫用のトイレが家にあった記憶が無い。今考えるに、両親は猫用のトイレを設置しなかったように思える。彼らは猫が外で用を足すと期待しており、ミチルが家の中で用を足したり嘔吐するたびに、叩いたり、蹴ったりした。家族の中のヒエラルキーで一番下であったのは私だが、それよりやや低い位置にミチルがいた。

私はミチルが怒鳴られたり、暴力を振るわれる姿を見る事が、自分が怒鳴られたり叩かれる事よりも耐え難かった。ミチルは私にとって、身を挺しても守らなければならない存在であったのに、私は彼女の為に殆ど何もしてあげられなかった。
                       
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ある時、ミチルが二階のトイレで下痢をしてしまった。母は怒り狂ったように箒を持ってミチルを追い回した。ミチルは急いで私のもとに逃げ、私は震えるミチルを抱き庇いながら、「私が掃除をするから許して!ミチルを叩かないで!」と泣き叫んで懇願した。それからどのように私が嘔吐のあとを掃除したのか記憶に無いが、私はずいぶん長い間泣いた事を覚えている。ミチルは私の両頬を流れる涙を舌で拭った。母も父も、それ以上その日はミチルに対して怒らなかった。ただ彼女は次の日から外に追い出され、家の中に入れてもらえなくなった。

昼は外でも快適に過ごせても、夜はそうではない。ミチルは夜、家に入りたがった。私が夜、今の窓辺に座ると、ミチルが外から窓ガラスに顔を擦りながら、家に入れてくれるように訴えた。母は厳しく、絶対にミチルを家に入れてはいけないと言い渡していた。ミチルが小さく鳴き、外から窓ガラスに顔を押し付ける間、私も自分の片頬を冷たいガラス窓に押し付けた。家の中からでも窓ガラスがつけたかったことを考えれば、外はどれくらい寒かっただろう。私は窓ガラスに顔を押し付けながら泣いた。家に入れてやれない自分の無力さ、悲しさで胸が一杯になった。私とミチルは、そうした夜を何日か繰り返した。

ミチルの最期は突然やって来た。

私たちは、ある日曜日、地域の開催する写生大会に遊園地に出かけた。ミチルは私がどこでも歩く度に私の足元に付きまとわったのだが、この日は私は急いでいた為、すぐ父の運転する車に乗り込んだ。ミチルは私の乗った車の後輪タイヤに付きまとわった。父は車をバックさせた。低く、それでいて大きなうなり声が耳をつんざいた。私は大きな不安に取り付かれ、辺りを見回したが、地面は見えなかった。父に車を止めてくれるよう頼んだが、集合時間に間に合うよう急いでいた父は、全く取り合わなかった。遊園地では、各所に取り付けられたスピーカーから、楽しそうな音楽が大きく流れていたのだが、私には不安を更に掻き立てる無神経な雑音にしか聞こえなかった。私は恐怖感と不安で胸が一杯だった。世界は私の不安や恐怖、悲しみや痛みに全く無関心なまま、時間を出来るだけゆっくりと経過させた。

家に帰ると、既にミチルは死に、父によって葬られた後だった。

私は家の駐車場の近くにある家の墓地に新しく増えたミチルの墓に、うつぶせに倒れこんで声をあげてずっと泣いた。涙の滝が私のまわりに轟音を立て流れているように感じられた。墓地にある木々も石も、私と一緒に泣いた。私はミチルにとって唯一の友人だった。ミチルは私に会えた喜びに、体を後部タイヤに擦り寄らせ、それによって轢殺されてしまったのだ

その事実の前に、何の慰めも存在しなかった。父は小さなシーチキンの缶詰をミチルの墓前に置いた。私は今でも、ツナ缶を開ける度に、ミチルの墓前に置かれた小さな缶詰を、悲しく思い出す。

 

(4/12)