祖父母について

虐待をする親というのは、若く、知識や、金銭的余裕の無い親だという先入観が、一般的にはあるかもしれない。もちろん、そうした例も多いだろうが、私の両親は会社を経営しており、金銭的にもかなりの余裕があった。そうは言っても決して『成金』ではなく、どちらかと言えば「世が世なら」という類の、落ちぶれてしまった家だった。父方の祖父は、紀州徳川家の向かいの、某伯爵家とある作家の間の家に、50人を超す使用人に囲まれながら「若様」と呼ばれて育ち、帝国大学を卒業し、弁護士の資格も持っていたらしい。教育者の家に生まれた祖母は女学校を卒業した後、二枚目俳優である上原健に似ていた祖父とお見合いをして結婚している。祖父母の間には男の子が四人生まれ、私の父は三男である。ところが敗戦によって財産をすっかり失ってしまったにもかかわらず、祖父には働いて家族を養うという感覚が全く無かった。一家は祖母が女で一人で働き、養うことになる。父が子供の頃は、一家は大変貧しく、一つの生卵を兄弟四人で分け合っておかずにしたのだと聞いた。私の記憶にある祖父母は、いつも小さな家に静かに過ごしていた。訪ねて行けば、白い馬にまたがり、腰にサーベルを差した曾祖父の写真や、軍服姿の祖父の写真などが壁に飾ってあり、「源氏物語」や「枕草子」、「徳川戦記」等のたくさんの本があった。祖母は時折、家系図なるものを見せては、昔の時代の事を楽しそうに話してくれた。祖母の話によれば、先祖の一人は、幕末の日本に開国を迫るマシュー・ペリー提督との交渉の為の、日本側通訳団の一人だったらしい。某大名家一族から養子に入った人物の名もあった。寡黙であった祖父は、「昔の話は、もうその辺でよさないか」と言いつつも、決して祖母を粗野に扱ったり、声を荒げる事もなく、いつも紳士的だった。

父と祖父は、全くと言って良いほど正反対の性質であった。祖父は教養深く、丁寧であり、品があった。私の父は、祖父の紳士ぶりを軽蔑しているかのようであり、「若様」と言われて育った祖父を「バカ様」と言ってからかった。上品な言葉使いをする祖父とは対照的に、父はいつも野卑な言葉を使っていたし、きちんとした場に出ると、どう振る舞って良いかわからない子供のように、しどろもとろした。

父の祖父への対応を見ると、父は祖父の育ちの良さや教養の高さを憎み、そうしたものには結局一切の価値が無いかのように、あからさまに軽蔑していた。父からしてみれば、いくら育ちが良く教養が高くても、家族を養う為に働く事をしなかった祖父は、尊敬に値しなかったのだろうし、父が少年期に体験した飢えを思えば、憎く思えたのかもしれない。父は、母と結婚し、母の実家に養子に行くことで、初めて貧困から抜け出せたようだ。

一度だけ祖父が、余りにも礼を欠いた父の態度に雷を落とした事がある。母の実家に皆で集まっている時の事であり、恐らく父は、いつものようにぞんざいで、あからさまに祖父母をバカにした言動をとったのだろう。祖父は父を叱った。父は反省の態度を見せたくない反抗的な子供がするように「うるさい」「バカ」「ぶっころすぞ」など、ぶつぶつ呟いたが、決して大人として反論しなかった。祖父が声を荒げた事は、その一度きりで、それ以前も、それ以降も無かった。父に対しては、「もう、あの子も大人だし、何を言っても通じない」という諦めのようなものを感じていたように思われた。私には、父からぞんざいな扱いを受ける祖父母が気の毒に思われ、いたたまれなかった。       

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母は、小さな山や貸しアパートをいくつも持つ、大地主の家に生まれている。ところが母の生い立ちは複雑であった。その複雑さは、母の母、つまり私の祖母、またその母、私の曾祖母から始まる。

母の母、つまり私の祖母、菊子(仮名)は、祖父との結婚前、親戚の家で行儀見習いをしていた際、その家で働いていた別の男性に強姦され妊娠し、その男性と結婚をしていた。もともと菊子は役人と教育者の間の家庭に生まれ、何不自由なく育っていたのだが、どういうわけだか菊子の母親伊都子(仮名)は、菊子と妹の妙子(仮名)、またその妹の泰子(仮名)を夫のもとに残して離婚をする。伊都子は別の男性と再婚をし、一男一女をもうけ、私が生まれた頃は一族の長として、皆に恐れられる存在だった。母に言わせても、伊都子は厳しく、威厳があり、気軽に甘えられる存在では無かったようだ。伊都子は明治の時代にもジーンズを履き、英語を教えていたという。伊都子の末の娘は米国の大学に留学し、永住権を獲得していたのだから、当時とすればかなりハイカラな家だったのだろう。

伊都子が家を出た後、菊子ら姉妹は、父親である英二(仮名)の下で育てられる。英二は村の人々が何かのきっかけで暴動を起こした時に県から遣わされた役人であり、その温厚で人徳の高い人柄によって、村の人々の信頼と尊敬を得たようだ。のちに、是非村に留まって欲しいという村の人々からの懇願によって、小さな村に住み続けたと聞く。教育熱心でありながら、温厚で愛情深く、妻が家を出た後の娘たちの世話も嫌がる事なく見たようだ。菊子が初潮を迎え、何事か全く理解できず、びっくりしていた時には、英二は血で汚れた娘の下着を洗いながら、月経について説明してくれたという。「お父さんは本当に優しい人で、メンスについても教えてくれた」と菊子は何度も懐かしそうに語っていた。

菊子はピアノを弾き、女学校の運動会の時には、ピアノの伴奏をした。女学校を卒業した時は、総代として答辞を読んだという。おっとりした性格で、しかも世間知らずであった菊子は、行儀見習いとして当時大きな商店を営んでいた親戚の家に奉公に出るが、その勤め先で、奉公人の一人であった太一に犯され、そのまま妊娠してしまう。全く意にそぐわない事だったのだが、奉公先の親戚に説得され、いやいや太一と結婚する事にしたらしい。菊子は女の子を出産し、その子を洋子(仮名)と名付けた。

洋子が手が離れるようになると、菊子は自分の叔母の家に手伝いに出る。叔母(正子)は病気がちで、もう何年も寝たきりであったという。菊子は寝たきりであった正子の世話を毎日するうち、今度は正子の夫、次郎(仮名)に強姦される。その強姦が一度きりであったのか、数回あったのかは定かではないが、菊子は次郎によって妊娠をし、双子の女の子を出産する。その双子の女の子の一人が、私の母である。

菊子は、太一と結婚している身で次郎によって身ごもり、次郎の子供を出産するが、双子の女の子の赤ちゃんのうちの一人は次郎の実子として役所に届け出を提出し、もう一人の赤ちゃん、母は太一の実子として届けられる。今となってはあり得ない話なのだが、菊子も母も伯母も「あの頃は、役所なんて、みな良い加減だったから」と他人事のように笑っていた。

私の母は、血の繋がらない太一の下で育てられ、伯母は子供のいない次郎の長女として次郎の下で育てられる。叔母である正子はどんな気持ちがしただろう、とやるせない気がするのだが、菊子に言わせると、正子は亡くなる前、両手を合わせ、「有難う、本当に有難う」と菊子に感謝を繰り返し述べたようだ。子供のいなかった次郎に、姪によって子供が生まれた事が嬉しかったのか、病気の自分の世話を最期まで尽くしてくれた事に感謝していたのかは知らないが、現在の感覚では正子の気持ちは全く理解できない。家を存続させるという意識が今よりも強かった当時、子供を産めない妻は妾によっても子供を望んだ場合もあるようだから、全くの他人である妾によってではなく、自分の姪によって夫が子供を得たとなれば、喜ばしく思えたのかもしれない。私は何度聞いてもこの話を逸話と思えなかったのだが、菊子は私の非難の方こそ的外れであるというようにキョトンとしてしまうので、私も狐につままれたような気になった。

母が語ってくれた幼い頃の思い出は、菊子と太一と暮らしていた坂の下の家から、毎朝菊子と共に坂の途中まで歩いた事だ。坂の途中からは、山の中途で暮らす次郎の家から、次郎のもとで育っていた母の双子の姉が菊子を迎えに来ていた。菊子は、毎日日中は次郎の家で手伝いをして過ごし、夜は母と一緒に太一の家で暮らしていたという。母は、毎朝菊子と一緒に坂を上っていく姉が羨ましかったという。「私も連れて行って」と訴えたようだが、そうした願いは一切無視された。その頃の事を語る母は、悲しく、つらそうだった。母は、毎日毎日、菊子によって見捨てられたような気になったのかもしれない。

実父として届けられながら実は養父であった太一は優しかったようだが、母は太一をお父さんと呼ぶ事無く、太一が死ぬまで「太一さん」として呼んでいた。

菊子は何年か後に太一と離婚をし、正式に次郎の妻となる。母は実父である次郎の養女として迎えられる。ようやく家族が一つになった、という安堵感があったように思われるが、次郎は厳しく、しかも癇癪もちであり、一瞬でも言いつけに従うのが遅い場合は、容赦なく体罰が下ったようだ。「おじいちゃん(次郎のこと)は本当にすぐ暴力を振るう人で、洋子お姉ちゃんも、みんな殴られ、髪の毛を持って引きずられた」と語っていた事があるから、洋子も次郎のもとに何年か過ごしたのかもしれないが、次郎の厳しさは、地元の紳士録にも言及されていた程なので、有名だったのだろう。娘が暴力を振るわれている時に菊子が娘を庇おうとすると、次郎は菊子も容赦なく殴ったらしい。それでなくとも病弱で頼りない菊子が自分の為に殴られるのが耐えられず、母は泣き叫んで次郎に許しを請うたらしい。

母の双子の姉である伯母に言わせると、母は祖母のお気に入り、最愛の娘だったらしく、実際祖母が母を可愛がっていた事は傍目にも伝わった。母もまた、美しく上品な祖母が自慢の種であり、大好きだったようだ。それでも祖父に似て気性が激しかった母は、穏やかでおっとりした祖母を慕いながら、どこか祖母に捨てられたという悲しさ、祖父の暴力から守ってもらえなかったという失望感、或いは悔しさのようなものを心のどこかに抱えていたようにも思える。

実際には次女でありながら、母は次郎の家を継ぐという意識を強く感じるようになる。双子の姉である伯母は東京に嫁いだので、母は自分が婿養子を迎える決意をする。一度はある公務員である男性と婚約したものの、何となく躊躇いを感じた母が次に白羽の矢を立てたのは、自分の言う通りになりそうな一歳年下の従弟である。従弟とは、母親同士が姉妹の関係だ。母は従弟と結婚し、二年後には私が誕生する。

 

(3/12)

恐怖の日々

幼少の頃の私は、怖い事ばかりだった。私を怖がらせたのは、両親や大人に叱られる事ではなく、母親に見捨てられる事だった。幼少の頃のベッドタイム・ストーリーと言えば、夜、寝る前の読み聞かせだが、私の母はその時間、「十五夜お月さん」(作詞:野口雨情、作曲:本居長世)をできるだけ悲しそうに歌って私を泣かせるのが好きだった。

 

1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
  婆(ばあ)やは お暇(いとま)とりました

2 十五夜お月さん 妹は
  田舎へ 貰(も)られてゆきました

3 十五夜お月さん 母(かか)さんに
  も一度 わたしは逢いたいな

母は歌詞の説明を、出来るだけ私の状況に似させ、「妹は田舎へ貰られてゆきました」という個所を「弟は田舎へ貰られてゆきました」と変えて歌い、この少女は意地の悪い父親に虐められて過ごす中、もう二度と会えない母親を恋しく思うのだと説明するのだった。私は母を失う恐怖感と悲しさで大泣きしてしまうのが常で、穏やかに眠りにつくどころではない。「ママ、死んじゃいや」と声をあげて泣き出す私を、母は満足そうに見つめながら、ただ黙って眠るように言いつけるだけだった。

また幼稚園の行事でリンゴ狩りの遠足があり、母子でどこかのリンゴ農園に出かけた記憶がある。不思議な事に、幼稚園の記憶は私には殆ど無い。私が覚えているのは、帰りの電車の中で、駅のプラットホームで売っているお弁当か何かを買いに、母が電車から降り、発車のベルが鳴り、ドアが閉まっても戻ってこなかった記憶だ。母は直前に、電車のドアが閉まるまでに母が戻って来られなければ、私は母ともう二度と会えなくなると説明していた。私は恐怖で一杯になり、どうか電車から降りないでほしいと頼んだのだが、母はすがる私の手を振り払って電車から降りてしまった。声も挙げられない恐怖の中、私は母が発車のベルが鳴るまでに電車に戻ってくれる事を願い、ただじっとしていた。ところがベルは鳴り、母が戻って来ないまま、電車は発車してしまった。その後何が起こったのか、私は全く覚えていない。何の事件にもならなかったのだから、恐らく母は発車の前に電車に飛び乗ったのだろう。その上で、しばらく私の様子を伺っていたのではないだろうか。母はこのように、自らの行動で私を怖がらせ、幼い私が泣きながら母にすがりつく姿を楽しんでいた。必死にすがる子供の姿を見る事で、自分への愛情を再確認していたのだろう。

私が小学生の頃になると、母に見捨てられたらどうしよう、という恐怖感は、「私は既に見捨てられている」という諦めに変わる。私の両親は、そのころ夫婦喧嘩のたびに、離婚したら誰が誰を連れて出て行く、という言い争いを始め、口論に際して常に優勢であった母は、必ず一つ年下の私の弟を指し「私はこの子を連れて行くから」と言い放ち、父は「じゃあ、こいつはどうするんだ」と私をあごで指すのだった。

「そっちで面倒を見ればいいでしょ」

母親は、まるで私が口論の原因であるかのような顔で私を睨みつけるだけだった。父親は貧乏くじを引いてしまった、という顔でちらっと私を見るのだが、私はいたたまれなくなり、ケンカに気付かない振りをして下を向くのが精一杯だった。
             
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それでも母が父との口論の末、本当に家を飛び出したことがあった。母は私の弟の手を取り、「私はこの子を連れて行くから」と言って、簡単な荷造りを始めたのだ。私は恐怖感と悲しさで一杯になり、小声で「私も一緒に行きたい」と懇願した。母は厳しい顔つきで「お前はここに残りなさい。連れて行かないから」と、まるで当然の事であるかのように、ぴしゃりと言い放った。弟の方は、どこかに遊びに行くかのように、楽しそうに母の言う事に従っていた。母は弟の手を取り、家の坂を下って行った。当時住んでいた私の家は山の中途にあり、母と弟が坂を下っていく様子がしばらく見えた。だんだん小さくなっていく二人の姿を見つめながら、私はじっと庭に立ち尽くしていた。黙って泣いていたのか、声をあげて泣いたのか、今では思い出せないが、まるでそこは、音の無い世界のようだった。泣いても叫んでも何も変わらない、何の慰めの声も無い世界だった。晴れた日の事で、遠くには山々が青く見えた事を覚えている。二人の姿が見えなくなった後も、私は青い山脈を見つめて泣いていた。

ところが母と弟が別居するに至らなかったのだから、二人は何時間か経った後、家に帰って来たのだと思う。母とすれば、実際に飛び出る事で、何か感情的にスッキリするものがあったのかもしれない。父ともすぐに仲直りをしたのだろう。私に対しては、抱きしめるでも、慰めるでもなく、何事も無かったかのようだった。弟はどこかのお店でお菓子を買って貰い、無邪気に楽しんでいたらしい事を、母が何年か後、笑って話していた。

一度爆発してしまうと、母の怒りは何時間も何日も続いた。母は私が泣く事をとても嫌がった。恐らく自分が非難されているように感じたのだろう。叱られて涙を流す事は、被害者のように振る舞う行為であって、即ち、母の考え、ルールや躾の仕方に反抗し、母を加害者として見做す行為と受け取られた。怒鳴られたり、叩かれたりして私が泣いてしまうと、母はいよいよ怒りを倍増させ、怒りの期間も延長された。であるので、私は出来るだけ泣く事を我慢した。何が原因であっても、涙を流せば罵倒されるのが常だった。

いつからなのか覚えていないのだが、私の両親は私の外見を醜いと嘲り、罵るようになった。「お前みたいなブスは、誰も好きになってくれないから」と、時には怒りながら、時には嗤いながら繰り返した。二人は口論の際に、私の醜さを以て相手を批判したりもした。「あの子が不細工なのは、あんたに似たからでしょ」と言い合った。しばらくすると二人は、言い争いそのものよりも、私を笑いものにする事を楽しんだようだった。こうした辱めは、一人の女の子であった私には悪夢のようだった。私は今でも、誉め言葉であっても、何であっても、外見についての会話を居心地悪く感じ、出来るだけ早くそういう話題を終わらせたくなるのだが、特に思春期を迎える中学生、高校生の頃は、父の視線がイヤだった。父はしばし、通りすがりに私の胸やお尻を掴んで下品に笑ったが、父のニヤニヤした笑いは、そうした望まない接触が私のせいであるかのように思わせた。体形がより女性らしく変わっていく事は、自然な成長の結果なのだが、父の下品な笑いには、まるで私が父を性的に誘惑したいが為に体形を変えているのだと訴える卑しさがあった。私には父の卑しさがたまらなくイヤだったが、父に触れられる事を拒絶すれば、私は自分の醜さを認識していない自惚れ屋だとからかわれるので、あまりハッキリと拒絶は出来なかった。私は、女性として存在する自分がイヤだった。

 

(2/12)

虐待について、私の経験を語る

栗原心愛ちゃんという10歳の女の子が、父親からの虐待によって殺されという事件で、傷害致死の疑いで逮捕された父親の第五回の公判が開かれたというニュースを読んだ。それに関連した児童虐待に関する記事で、2017年には大阪府箕面市で筒井歩夢くんという4歳の男の子が、母親と交際相手らからの暴行で亡くなり、母親に懲役9年が判決として下されたこと、また昨日のニュースとして、同じく4歳の岩井心ちゃんという女の子が両親からの暴行を受け、低栄養状態で衰弱死しており、両親が逮捕されたとあった。

こうした児童虐待の記事は、探せばいくらでも出てくるのだろう。

幼い子供たちが彼らを守るべく保護者によって殺されてしまった事件が知らされるつど、我々は心を痛め、こうした事が二度と起こらないよう祈るものだが、実際に虐待されている子供に遭遇してもどうして良いかわからないのが本当だろう。せいぜい、自分たちの目撃したものが虐待でない事を祈るばかりだ。虐待をしている親の多くは虐待を認める事は無い。しかも彼らは親権を持った大人として、子供の体にあざがあったとしても、或いは子供が虐待により情緒不安定に陥っていたとしても、自分たちの行ないを弁護し、正当化する事が出来るのだ。被害に遭っている子供が虐待を訴えても、事件にでもならない限り、子供の声が届く事は無い。しかも事件になった時には、既に子供たちは死んでしまっているのだ。

大人たちの社会は、「このような悲劇を繰り返してはいけない」とか「虐待によって失われる幼い命を救わなければならない」と言いつつ、虐待をされている子供たちに声を与えていない。彼らが声をあげる機会を、社会として設けていないのだ。虐待を受けた子供に声をあげる場が少しでも与えられるように、私はある少女の声を文章とする事にした。実はこの試みは2017年から始められており、私はその少女が思い出すままを、まず英語で書きだした。この少女は思いつくままに、時には何時間も語りながら、また時には数か月黙って過ごしつつ、起こった事をランダムに語り出した。この少女の記憶の多くは途切れており、場所や状況や言葉は鮮明に覚えていても、その直前直後に何が起こったのか忘れてしまっていたりする。まるで実際には起こっていない事のように自分の人生を生きてしまった為、嫌なことの多くを意図的に忘れてしまっているのかもしれない。彼女は、それでも、失くしていたと思っていたものが別のものを探している最中に見つかるように、嫌な出来事も別のキッカケで思い出される事があると言う。

これは、そうしてランダムに思い出された少女の記憶の綴りである。そしてその少女とは私だ。

 

一番初期の幼少期の思い出として覚えているのは、父親にタートルネックのセーターを着せられた時の記憶だ。私はセーターのチクチクした素材がクビを痒く刺激するのに耐えられず、「これ、かゆいからイヤ」という類の不満を言った事を覚えている。父親は突然飼い犬に噛まれた人のように、一瞬ひるみ「こいつ、生意気だ」と言い放った。その後、怒りに満ちた父親に頭や顔を叩かれたのか、或いはそれだけで収まったのかは記憶にない。

「生意気だ」「自分勝手だ」という叱責は、私が幼少の頃から、また結婚し、子育てをするようになっても言われ続けた事だ。私は未だにタートルネックのセーターが好きではない。素材によっては首が痒くて仕方ないし、そうでなくても首を絞められているような圧迫感を感じるからだ。チクチクした素材がイヤだという事は、決して「生意気」でも「自分勝手」でもない筈なのだが、私の両親にとっては「親の言う事をきかない」という悪事だったようだし、「親の言う事をきかない」といった悪事は、子供が犯し得る悪事の中で、一番悪い事のようだった。

タートルネックのセーターだけではなく、その他にも「親の言う事をきかない」と言ってしばし叱られたのは食事中が多かった。私は偏食の傾向があり、しかも小食であった。今では贅沢な悩みのようだが、子供の頃は食事時がいつもつらかった。もっと食べるように、何でも食べるように、と言われるのがイヤで、それだけで元々の小食が更に減退するのが常であった。私の母親は、無理にでも私に食べさせようとして、叱ったり、怒鳴ったり、叩いたりしたが、時には「私がご飯を食べきらなければ、神様が来てお母さんを殺してしまう」といった作り話によって食べさせようとした。ある時は、ウナギの美味しいというレストランで、一匹のウナギが私に栄養を付けさせようとして死んでくれたのだけれど、私が食べない為に命が無駄になってしまった、という悲しい話をした事がある。こういった悲しい話をされると私は泣き出してしまい、涙と鼻水でしゃくり上げながら、無理やり食べ物を口いっぱい頬張り、味わわなくて済むようにお茶やお水で食べ物を流し込むのが常だった。
                             
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更に悪い事に、私はたばこの煙や匂いが大嫌いだった。今でも日本でたばこを吸っている人のそばを通り、たばこの煙を吸い込むと、こめかみの辺りが痛くなる。ヘビースモーカーやチェーンスモーカーという人々が一日に何本の煙草を吸うのか知らないが、私の両親は絶えず煙草を吸っていた。二人とも車の中であっても、食事中であっても煙草を吸うので、エアコンの冷風や暖房の温風を逃がさないように窓や扉を締め切る夏や冬は特に嫌だった。小学生くらいになると、窓を開けて吸ってくれるように何度も頼んだが、両親にとって私の頼みをきくという事は、即ち甘やかす事に思われたようだ。両親は、むしろ私の頼んだこととまったく逆の事を行ない、願っても無駄たと思い知らせる事の方が、子供の自我を砕くという正しい躾であるかのように振る舞っていた。

私の家は、母方の祖父母の大きな敷地内にあった。竹森や苔で覆われた手水鉢、白い玉砂利を布いた日本庭園を持つ和風建築であり、大きな家だった。隣の白い洋館には母の妹夫婦が住んでいた。私の両親は、バツとして食べ物を与えないというような、躾という名目の虐待はしなかったが、怒鳴られたり、叩かれる事は頻繁にあった。幼稚園のまでの頃は、両親が叩こうとすると、私はすぐに祖父母の家に走って逃げたようだ。祖父母は私を庇い、特に祖父は私の両親を厳しく咎めたようだが、母は「私だって叩かれて育てられた」と言い返していた。母が少しでも反抗的な態度をとったり、怠慢な態度を示した場合、祖父から酷い体罰を受けて育てられたことは事実のようだが、私の母親は、体罰よりも言葉の暴力を加える事が多かった。叫んだり、罵ったり、いかに私さえ存在しなければ母の人生がマシになるか、時には「死ね!」と怒鳴ったり、「ブス!」と罵ったりして何時間も過ごした。その間に、正座を崩したり、ため息をついたり、反抗的な態度を少しでも見せれば、火に油を注ぐだけだった。7歳くらいの頃には「私さえ生きていなければ、みんな幸せになるのに」という思いが私の中にすっかり定着していた。

それでも私は母が大好きだった。母親を好きでない子供などいるのだろうか。私にとって母親は、明るく輝く太陽のようで、叩かれても力の限り尻尾を振って飼い主を迎える子犬のように母親を慕っていた。きっと母親には、私の選択的記憶によって思い出されないだけで、楽しい面、或いは優しい面があったのかもしれない。私は母を好きだった分、母が私のように悪い子供によって不幸になる事が申し訳なく、悲しく感じられた。

ところが私の父親との関係は、先のタートルネックのセーターの思い出と、もう一つの奇妙な思い出とに始まっている。それは私が4歳か5歳くらいの事だったと思う。夜、布団の中で、父親に裸の胸を吸われている思い出だ。子供ながらに奇妙なもの、得体の知れない恐ろしいものを感じていた。当時一つ年下の弟が母に付き添われて東京の病院に入院していた為なのか、家には私と父しかいなかった。それ以降始まったのか、或いはそれ以前から感じていたのか定かではないが、私は父の傍では居心地の悪さしか感じた事が無い。幼稚園や小学校低学年の頃父親と入浴していても、私は父親に裸を見られるのがイヤで、常に背中を向けていた。父はそうした態度が気に入らないらしく、怒鳴ったり、叩いたりしたが、それでも私は父親に裸の姿を見られるのをイヤがった。父の膝に座らされた時にも、言葉では表現できない居心地の悪さを感じた。父とは廊下ですれ違うのもイヤだった。すれ違いざまに胸やお尻を掴まれた記憶があり、その時の父の下卑た笑い顔は今でも思い浮かぶ。私が感じていた得体の知れない怪物に対するような父への恐怖感、不信感は、説明のしようが無かった。

この怪物の正体は、私が中学生の頃、ハッキリとされた。自分のベッドで寝ていた私は、何故か隣で寝ていた父の指が私の下着に伸び、性器を丹念に触り始めた事で目が覚めた。私は恐怖で声が出なかった。しばらくして父は、ゆっくりと自分の手を引っ込めた。その間どのくらいの時間が過ぎたのかはわからないが、恐らくほんの1分以内の事だったのだろう。しかし私には永遠の時間が流れたようにも感じられた。翌朝私は、母にその事を報告した。母は笑って「お父さん、寝ぼけていただけでしょ」と受け流し、それ以上何も言わせなかった。それ以上追求すれば、母が私の「思い違い」を自惚れだと告発し、罵倒する事が分かり切っていた。私は黙ってそれ以上は言わなかったが、納得はしなかった。父は寝ぼけていなかった。私が夢を見たのでもない。私が幼少の頃からその存在を感じていた化け物は、確かに存在していたのだ。私は、「お母さんが信じてくれなくても、みんな信じてくれなくても、何が起こったかは私が知っている。私は絶対に嘘をついていない。これからは私が自分で自分を信じてあげなくちゃ」と自分自身に言い聞かせた。

(1/12)

マスクを買い占める人々

ポールについては、先に書いた通りだ。

今日のニュースでは、ポールの勤めるデトロイトの病院では、31,600人いる職員の2%以上に当たる、734人の職員がコロナウイルスに感染しているという。恐らくもっと多くの職員が感染していると見られているが、これら職員が感染した原因は、コロナウイルス感染者への治療に当たり、医師や看護師らの職員ですら、ウイルス対策に効果的なN95マスクはおろか、使い捨てマスクといった最低限の装備すら不足している事にある。ミシガン州各地の大病院では、使い捨てマスクの在庫が数日内に無くなるだろうと予測されている。

こういったPPE(Personal Protective Equipment)の不足については、第43代大統領であったブッシュ大統領以来、オバマ、トランプ両政権が、伝染病対策を行なってこなかったとして、両政権を批判する事はできる。特に政権を取って3年経つトランプ政権が、中国政府の主張を真に受け、3月半ばに入ってやっとマスクの発注をした事を考慮すれば、あまりにも脅威を過小評価したと非難されて当然だ。

中国に関して言えば、世界の約半数のマスクを製造しながら、それらを全て買い占め、輸出させないのだから、厳しく非難されない方がおかしい。加えて中国政府の主張を鵜呑みに、人から人への感染は無いと宣伝し続けたWHOも非難は免れないだろう。またマスクを買い占め、それを高値で転売する人々への批判も、また転売業者から高値で買う人々への批判もあるだろう。

かくいう私は、転売業者から高値を承知でマスクを購入している一人である。高値で購入する輩があるからこそ、転売業者はなかなか売値を下げない、という批判は尤もだ。であるから、インターネット上の転売業者から通常の何倍もの金額を支払ってマスクを購入する時には、私自身、悪循環のサイクルに貢献してしまっている事を心苦しく感じる。しかし私は、こうして購入した使い捨てマスクの全てを、ミシガン州でコロナウイルス感染患者の治療にあたっているミシガン大学病院とヘンリー・フォード病院に寄付している。ミシガン州ではコロナウイルス感染例が米国で3番目に多く、それらの患者の多くはこれら病院に集中している。転売業者に利益を与えているという一抹の心苦しさがあるが、コロナウイルス感染者の治療を行なう医師、看護師らは、マスクが通常価格で販売されるのを待つ時間的余裕が無いのだ。

これに関連して、以前、アルコールの消毒ジェルを転売している業者の記事をニューヨーク・タイムズ紙で読んだ事を思い出す。彼は米国内でのコロナウイルス感染者発見に伴い、自分の住むテネシー州と、その近辺州のドラッグ・ストアやスーパーマーケットなどに赴き、アルコール・ジェルやワイプスの全てを買い占め、それを転売し始めたらしい。彼の買い占めたアルコール・ジェルのボトルは17,700本にのぼり、何千万円か儲けたらしいが、アマゾンが転売業者を悪質として業者リストから外した為、売る先を失い、これらの必需品は彼の家のガレージに眠っていたようだ。https://www.nytimes.com/2020/03/14/technology/coronavirus-purell-wipes-amazon-sellers.html 彼の事を書いたニューヨーク・タイムズの記事が発端となり、彼はテネシー州によって転売の容疑で捜査を受けている。

「トイレットペーパーが無くなるかもしれない」と聞けば、それを大量買いしたくなる気持ちは理解できる。小さい子供がいたり、多くの家族を抱えていたり、妊娠していたり、或いは外出制限令が出されるかもしれないと考えれば、出来るだけの生活必需品を蓄えておこうと考えるのも当然だ。しかしながら、コロナウイルスのような伝染病が、自分の住む国、地域に迫っている際に、自分の健康さえ守られれば安全だと考える事は誤っている。伝染病に対しては、コミュニティーが健康であり、感染を防いでいられなければ、自らも危険なのだ。

コロナウイルスに対する戦いを、「戦争だ」と表現する人々がいる。その意図は別のところにあるかもしれないが、私もここで戦闘の例えを使ってみる。敵との戦闘中であると仮定して、味方の武装がなされていないなか、自分だけに100本の銃が与えられ、100着のボディーアーマーがあったとする。100本の銃と100着のボディーアーマーを一人で抱えて敵と戦うよりも、それぞれ味方99人に分けた方が、自分の身も安全ではないだろうか。まして自分が戦いに慣れていないとすれば、戦い慣れた味方を充分に装備させる方が、戦略として効果的だろう。

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私たちの安全は、予備のマスクやアルコールジェルが数多く押し入れに眠っている事には無い。私たちの身を守ってくれている医療従事者が充分に装備できていてこそ、私たちの安全は守られるのだ。

家にこもる生活が続く限り、マスクもアルコールジェルも、家庭内の生活において、殆ど必要ではない。どうしても必要があって買い物に行く場合でも、他人との約2メートルの距離を保てれば、一般人には(勿論、あれば越したことは無いのだが)マスクはそれほど必要ではない。帰宅して石鹸で手を洗うまで顔を触らない注意を怠らなければ、アルコールジェルやワイプスもそれほど必要でない。勿論、家族を守る為に、これらを家庭用に購入する人々について、どうこういうつもりは無い。しかしながら世界的なパンデミックに瀕して、これらの必需品を買い占めたり、高値で売るような行為は、やはり社会の困難に便乗し、さらに不安と危険を招く悪徳なビジネスとして罰せられて当然である。彼らは自らの安全を信じきって転売をしているのかもしれないが、医療従事者らが守られない限り、実は彼らも安全ではないのだ。

私たちは、持っているところに従って、医療従事者たちを守るべきだ。また社会が機能していく為に外で働く人々を守るべきだ。コミュニティーの一員として、このパンデミックに立ち向かって行くべきだ。やがてコロナウイルス感染の勢力は収まるだろう。回復者が増え、抗体が作られ、ワクチンや治療薬も開発、販売される。いずれマスクやアルコール消毒ジェルの品切れ、トイレットペーパーの品切れも、収まる時が来る。その時に、山のようにマスクや消毒ジェルを抱え込んで安穏としていた人々は、実は自分たちの属するコミュニティー全体の安全を脅かしていた事に気付くだろう。

ポールという医学生

始めてポールに会ったのは、去年の暮れ、付近10件の家で、毎年持ち回り開催されるクリスマス・パーティーでの場だ。それ以前から、ポールの両親、ベンとバーバラとは、家が斜め向かいにあるという事で、犬の散歩の途中、立ち話をしたり、年に何回か開催される近所の集まりで話をした事がある。私の二人の息子が高校ホッケーのチームで活躍していると知ると、自分の息子もホッケーをしていたという事で話題が弾んだ。また私の長男が医学関係に進みたいという希望を述べていたので、ミシガン大学病院に努める医師であったベンは、息子に対して色々とアドバイスをしてくれた。その流れで、ベンの息子であり、デトロイトの某大病院で実習する医大生のポールは、去年の秋、私の長男に会う為に、一度我が家を訪れたという。ところが、その時たまたま駐車場でホッケーのシュ―ティングを練習していた次男に会い、共にシュートの練習を行なって、何故かそのまま帰ったらしい。

私の次男は、フレンドリーだが気が利く性格ではない。ポールもどちらかと言えば、かなりシャイな方なようだ。二人は黙々とただホッケーのシューティングを行ない、話といった話は何もしなかったらしい。

クリスマス・パーティーの直前、バーバラからその話を始めて知らされた私は、次男に聞いた。「お向かいのポールが来たの?」

「その人、誰?」

「お向かいの、ドクターの人」

「うん。ドクターか知らないけど、たぶん来た」

「で?なんで教えてくれなかったの?」

次男は笑って肩をすくめた。アメリカでは「さあ、知らない」という意味のジェスチャーだ。

「だめじゃない」と呆れて笑うと、次男は「うん」とニッコリ笑って返した。

バーバラは、クリスマス・パーティーの最中、ポールが帰って来たという事で、私を脇に引き寄せ、紹介をしてくれた。ポールは大人しい、無口な青年だった。体格はがっしりしていて、背も高い。俳優になるようなハンサムではないが、青い目が優しい、誠実そうな青年だ。ただ、とても疲れているように見えた。賑やかな会話よりも、座って休みたそうな雰囲気のポールとは、挨拶程度の話をしただけで、いったん離れた。

1,2時間ほどして、私と夫はソファーに座って、ベンと一緒にデザートを頂いていた。ベンは何かのカクテルを飲んでいたが、私たち夫婦はお酒を飲まない。ベンは自分の意見をハッキリ述べる人物だが、お酒に酔った為か、いつもより静かだった。

するとポールが、先ほどより打ち解けた様子でやってきた。ベンの隣に座り、ホッケーの話をし始めた。ポールは高校時代ミシガン州を代表するセンターだったようだ。ポールは、毎年ミネソタ州で開催されるホッケーのサマーキャンプに私の次男が参加する事を勧めた。一応の話を聞いて、良いホッケーのキャンプなのだと理解できた。ところが次男本人はそこにいなかったので、ポールの説明に納得し同意しても、「はい、是非参加します」とは言えない。「そうですね。素晴らしいキャンプだと分かりました。是非、参加する方向で息子と話をします」と言うのが精一杯だ。ところがポールは、恐らく酔った為かもしれないが「このキャンプのすごさが、まだ充分に理解できてないでしょう」と引き下がらない。

私は仕方なく話題を変えようとした。「ポール、お仕事について聞かせてちょうだい。何科のドクターなの?」

ポールは自分の仕事について話し始めた。救急救命室で働く麻酔技術者でもあるポールのもとには、事故や事件で負傷、重傷を負った、或いは重体となった患者が次々と運ばれてくる。弾丸が頭蓋骨に撃たれたままであったり、足が切断されていたり、という患者だ。ポールのジレンマは、患者にとって最も良い方法が何かといった判断をし兼ねる事では無い。彼のジレンマは、患者にとって最良と思える方針と、患者の意向、経済能力だけではなく、病院側や、患者が加入している保険会社の勧める治療方針が一致しな場合が殆どであり、その為に患者にとって最善の治療ではない(と思われる)治療を行なう事、或いはその可能性にあるようだ。人の命を救うため、一人でも多くの人命を救う為に医学の道に進み、現場に赴く筈が、達成感どころか「患者にとっての最善の治療を行なっていない」という敗北感を味わう毎日らしい。毎朝起きると、その日に起き得る事を考え、ストレスから食欲もなく、緊張で吐き気がするそうだ。

私の目の前でボツボツと語るポールは、決して医学生としてのサクセス・ストーリーを語る幸せな人物ではなかった。医学生としての自分の毎日を語りながら、時には茶色の睫毛に涙を瞬かせる不幸な若者だった。

ポールは、そうした自分の生活をしばらく語ると、またホッケーの話題に話を戻す。ホッケーが余程好きなのだろう。私の次男についてのローカルニュースも追って読んでいたらしい。「彼には才能があるから、絶対にミネソタのキャンプに行くべきだ。そうしたら、本当にすごい選手になるから」と熱心に勧める。同じくほろ酔いの母親、バーバラが途中から入って、「そう勧めても、何もホッケーで食べていけるわけじゃないでしょうに」と助け船にならない助け舟を出す。

ポールは自分の母親に対して「マム、彼(私の次男)は、本当に才能があるんだ。一緒にシュートをしたから僕にはわかってるんだ」と説得を試みる。我が家の次男がミネソタ州のホッケーキャンプに行くべきか否か、どちらも自分の意見を曲げない。私も夫も、どちらの意見に賛成して良いかわからない、奇妙な時間が過ぎた。

最終的には母親のバーバラが意見を曲げた。ポールは、世界で一番達成感があり、素晴らしい出来事であるかのようにホッケーを語る。恐らくポールには、州を代表するセンターとしてホッケーを楽しんだ日々が、輝いて思い出されるのだろう。そして私の次男に対して、最高の機会を与えられながら、ホッケーを存分に楽しんで欲しいのだ。

ポールについては、「誠実なのだろうけれど、あまり幸せそうではない、気の毒な青年だな」という印象を受け、その夜は別れた。ポールの抱える悲壮感はどこから来るのだろう。果たして医者となる事は、本当にポールの進みたかった道なのだろうか。そう考えたものの、ポールについては、その後、何週間も思い出さなかった。

 

さて今年に入った1月の時点で、米国でもコロナウイルス感染者が確認された。そうこうするうちに、店頭からアルコールジェルやマスクなどが消えてしまった。何故かトイレット・ペーパーすら無い。今年に入ってからの日本のニュースに触れていた為、私は1月の時点でアルコール・ジェル、ワイプ、マスク等を購入していた。コロナウイルスが広まりつつあるというニュースにより、私は親戚や友人、知人、近所の一人暮らしをする老人らに、手元に残ったアルコールジェルやワイプ、トイレット・ペーパーなどを分け始めた。一人の人が『大量』を確保するよりも、多くの人々が『充分』を確保する方が良い筈だ。そうこうしているうちに、ワシントン州で確認されたコロナウィルス感染は、カリフォルニア州、ニューヨーク州、オハイオ州等にも広まり、3月10日には、コロナウィルスの感染者がミシガン州でも確認された。
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米国中の病院で、消毒用アルコール・ジェルやアルコール・ワイプ、マスクなどが病院でも不足し始めた。医師や看護師らは手作りのマスクをしながら感染者の治療に当たっているという。そうした事を聞き、ふと我が家のクローゼットには、まだ使い捨て用マスクが40枚程残っている事に気付いた。小さなアルコール・ジェルのボトルやワイプもたくさんある。これらをお向かいのバーバラに届けたら、病院で使ってもらえるだろうかと考え、翌日バーバラの家を訪ねた。

玄関の呼び鈴を鳴らすと、バーバラが出てきた。何か急いでいるようだったので、立ち話をするつもりもなかったのだが、「いくつかマスクやアルコールジェルが出てきたのだけれど、これ、お使いになる?」と聞くと、バーバラは私の手から奪うようにマスクを取り、涙を見せた。

「有難う。これ、息子が使えるわ。有難う。息子の病院にもマスクがなくて、みんなバンダナで代用してるのよ。私たちがどれ程のリスクを負っているか、あまり知られていないの。有難う。これだけあったら、同僚にも分けてあげられる。」

私は、母親として息子を心配するバーバラの心境を思った。気丈な彼女が、使い捨てマスクを宝物のように胸に当て、涙を滲ませている。バーバラも夫のベンも、医者として大学病院で働く。高齢となっている二人は、コロナウイルスに感染すれば命の危険を伴う。私が差し出したマスクは手術用マスクであり、ウィルス対応ではない。それでも彼女はマスクを見た瞬間、息子を思い、息子の安全が保障されたかのように喜んでいる。

現在ミシガンでは、医師らが家族に宛てた遺書を書きながら、感染者の治療に当たっている。https://www.nationalreview.com/corner/last-night-we-had-a-bizarre-conversation-over-dinner/

昨日のニュースでは、コロナウイルスに感染したヘンリー・フォード病院の看護婦が、検査も受けられないまま、一人、自宅で亡くなったとある。https://www.foxnews.com/us/detroit-er-nurse-dies-alone-at-home-from-coronavirus

医師も看護師も、医学生も、感情ある普通の人間だ。私は、それでなくとも治療に携わる緊張とストレスから食欲を失い、吐き気を催しながら毎朝を過ごすポールを思い出した。繊細なポールが、快復の見込みが無いと見做された患者から人口呼吸器を外す場面、通常であったら救えた命が失われる場面において、どれほど苦しむだろう。自分や同僚がウイルスに感染するかもしれない状況に、どれほど苦しんでいるだろう。

私は、ポールの為にも、マスクなど物資の寄付は、彼の勤務する病院を優先させようと考えた。あらゆる病院では、現在使い捨て手袋も不足していると聞き、近くにあるペンキ専門店を訪れた。案の定、使い捨て手袋の在庫が1,200枚あり、そのうちの600枚を購入する事が出来た。病院で使用する種類ではないかもしれないが、様々な病院が、ペンキ専門店や大工らから使い捨て手袋の寄付を募っているほどの緊急事態である。バーバラの家を訪ねてから何日か過ぎた頃、日本に住む従妹に宛てて2月の時点で送っていた使い捨てマスクなどが、なぜか税関を通らず結局手元に返却されてきた。そうして1,000枚ほどの使い捨てマスクを再びバーバラのもとに届ける事が出来た。これで少しでも役に立てれば、と考えた。すると物資を受け取ったポールからメールが来た。

『ポールです。マスクやアルコールワイプなど、色々と有難う。病院のスタッフ一同、みんな感謝をして受け取りました。現在では、どんなに小さな援助でも、役に立ちます。ご家族皆さん健康で。息子さんたちに、ホッケーのシュートをまた一緒にしようと伝えて下さい。』

私は、ポールの活躍と無事を祈る。彼は大人しく、繊細で誠実な青年である。自問を繰り返し、迷い、弱さを吐露する医学生だが、彼とて地球規模のパンデミックに勇敢に立ち向かっている医療従事者の一人なのだ。

 

現在アメリカでは、多くの人々が医療従事者に対してのサポートをし、感謝を伝えている。自分の持っている範囲に従って、彼らをサポートしているのだ。マスクもアルコールジェルも無い人々は、できる限り家に引き籠る事で、医療現場に負担をかけない協力をする。祈りの中に医師や看護師らを覚える人々もいる。今日のアメリカを支えているのは、ポールのような医療従事者であり、彼らを支えるのは多くの名も無い人々だ。

https://www.amny.com/coronavirus/police-unions-bring-food-to-hospital-in-queens-during-covid-19-crisis/amp/?__twitter_impression=true

やがてこのパンデミックも終局する。快復した人々が増えるに従い抗体が作られ、ワクチンが生まれ、治療薬も開発される筈だ。そしてポールは、充分迷い、自問し、悩んだ医学生として、立派な医師へと変わってゆくだろう。その時まで彼が無事であることを、また彼の幸福を祈らずにはいられない。

  *文中の人名等は、すべて仮名を使っています。                             

保守派アメリカ人と観た『主戦場』

ミシガン州アンナーバー市ダウンタウンにあるミシガンシアターにおいて、ドキュメンタリー映画『主戦場』が上映される事を、当日にミキ・デザキ監督から知らされた。ミシガンシアターは、私の自宅から10分とかからない距離にある。せっかくなので、主人や義兄、義妹夫婦、友人らを誘って、鑑賞する事にした。『主戦場』については、一度デザキ監督からリンクが送られており、それを主人や子供たちと鑑賞している。その時は、あまりの偏向振りに嫌気がさし、途中から注意を払う事をやめてしまったが、映画館では集中して鑑賞し続けるしかない。その分、細部に至るクリティカルな批判が出来るかと期待したのだが、実際には、展開が早すぎて、資料を提示している場合でも、その資料の全体はおろかハイライトされている部分すら読む時間が与えられていなかった。批判するべき点においては、だいたい今までにも書いた通りであるが、敢えて付け加えるとすれば、編集の結果、私の言葉がデザキ氏の都合の良いように切り取られている点である。これについては、後述する。

今回の鑑賞は、アメリカという国で、アメリカ人に囲まれて行なったので、アメリカ人として鑑賞する事が出来た。しかも極東の歴史や政治問題について疎いアメリカ人らと共に鑑賞した為、私自身、一般的アメリカ人の視点から鑑賞する事が出来た。

改めて書くが、一部の右派出演者らによる人種差別的発言や性差別的発言が、慰安婦問題に関する全体としての右派の主張の正当性を傷つけている点は、日本人右派が国内でどのように弁明、弁護しても否めない。これは右派の暴論に対して、劇場中に観客から漏れる、ため息やうなり声、舌打ちによく表れている。しかしながら、この映画が両論併記としつつバランスの取れた作品で無い事は、アメリカ人にも伝わるようだ。途中『女たちの戦争と平和資料館』事務局長である渡辺美奈氏は「一億円を貰っても奴隷だと思います」と語っていたが、こうした極論は、実際に奴隷が何であるか知る米国人、また現在も存在するISISやタリバンなど原理イスラム教過激派からの性奴隷の解放に関わる人々にとっては、真の奴隷の悲劇を軽んじる暴論に聞こえる。そしてこうした極論を、デザキ氏は、右派への人格攻撃を以てその主張の正当性を疑わせたようには編集せず、慰安婦を性奴隷と呼ぶ事への正統的論理として流している。

渡辺氏は更に「性被害を受けた女性を信じず、その証言を疑えばセカンドレイプになる」と語っていたが、冤罪というものを防ぐ為には、どんな証言も吟味されて当然である。勿論、慰安婦の女性の些細な記憶の不正確さ全てを以て「信用性が無い」というつもりは無いが、日本政府に謝罪と補償を求める女性たちの中には、慰安婦となったいきさつについて、つまり公権による強制があったのか、あるいは個人的選択だったのか等の核心の部分の証言において、証言を二転三転させている場合が多い。慰安婦となった核心の部分における経緯の信憑性を吟味する事すら「セカンドレイプになる」と呼ぶ姿勢には、真実よりも政治信念を優先させる姿勢しか感じられない。

「Believe women」は、2018年のブレット・カヴァナー最高裁判事承認是非への公聴会において、アメリカ保守派が最もうさん臭く感じたスローガンの一つである。アメリカの左翼が叫んだ「女性を信じて」「疑えばセカンドレイプ」等は、「女性である事が真実を証言している事にはならない。冤罪を防ぐ為にも、状況証拠を欠いた女性の証言は疑われて当然」という当然の反発をアメリカ保守派から招いており、渡辺氏がこうした発言を説得力のある論理であるかのように語り、デザキ氏が後押しした時点で、「単なる左翼プロパガンダ映画だったのか」という強い印象を与えてるだけに終わっている。

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    伝統あるミシガン・シアター。アンナーバー市ダウンタウンの中心に位置する。

しかも、日本人にとっては気付かない点なのかもしれないが、この映画がアメリカ人保守派にとって全く説得力を持たない致命的欠陥は、結論部分でのデザキ氏の主張にある。デザキ氏は、「日本の再軍国主義化運動の陰にはアメリカがあり、アメリカの手先となった故岸伸介首相があり、またその孫である安倍晋三現首相がいる」と描いている。また慰安婦問題と安倍政権による再軍国主義化を繋げる人物として加瀬英明氏を取り上げ、加瀬氏を中心に陰謀のネットワークがあるように見せている。安倍首相や日本会議による日本再軍国主義化の恐怖感を煽ろうしているのだろうが、その「日本再軍国主義化の恐怖」とは「アメリカの起こす戦争に、日本が巻き込まれる事への恐怖」なのだ。デザキ氏は自身のナレーションを以て、アメリカの起こす戦争を日本の若者が戦うことになっても良いのか、と問うているが、これは恐らくデザキ氏が日本人左翼からの感化を受け、彼らのトーキングポイントをそのまま引用した結果だろう。アメリカの戦争に日本が加担する事は、日本人左翼やデザキ氏にとっては、とてつもなく恐ろしい事なのかもしれないが、普通のアメリカ人からすれば「同盟国なのだから、当然なのでは?」と、一蹴してしまえる幼稚な問いかけである。実際、主人にも、義兄であるテッド•ケネディにとっても、「安倍政権が中国やロシア、あるいはイランに操られていて危険」というのならともかく、「安倍政権にはアメリカの意向が働いて危険」という流れは突飛に思えたようだ。アメリカを悪の根源として描き危機感を煽ったところで、当然ながら、アメリカの戦争も含め、アメリカを悪の化身として捉えるこの映画は、一般のアメリカ人には反米プロパガンダ映画としか映らない。この映画についてのレビューは、右派のものも、左派の書いたものも含めて読んだが、この点が指摘されていない事を鑑みても、日本の左右両派の歴史観が、欧米左翼による「アメリカ・西洋自虐史観」に影響されている為と理解できる。またアメリカや欧米を悪の根源とする歴史観以外の歴史観がある事をデザキ氏が理解できない点は、アメリカ人としてあまりにも稚拙な失態だ。 

       

ちなみに安倍首相は、トランプ政権や共和党を含め米国保守派からの評価が決して低くない。アメリカ人保守派による日本会議への警戒心があっても、少なくとも外交や安全保障問題における安倍首相は、理に叶った現実的政治家として見られている。デザキ氏は質疑応答中、「生存する慰安婦の女性たちが亡くなった後は、この問題は消滅してしまうのではないか。安倍政権はそれが分かっていて、問題の解決を遅らせている」と答えていたが、多くのアメリカ人は2015年に慰安婦問題の解決に向けて日韓合意が結ばれた事と、その合意を韓国が破棄した事を知っており、「安倍政権が解決に乗り気では無い」とは説得力に欠ける。

 

この映画へのレビューには、「歴史修正主義者の主張を左派が次々に論破している」といった感想も少なくないが、議論というものは、言い切ってしまえばそれが論破となるのではない。ましてや監督による反対意見の引用が、論破している事にもならない。日本在住の人々が論破というものをどのように理解して使っているかは定かではないが、アメリカ的な考えで言えば、説得力のある議論とは、反対意見との議論を戦わせて相手の説の破たんを証明するところにある。しかし「主戦場」では、後出しジャンケンのように、右派の主張に反対する意見を左派に述べさせ、それで「論破した」事にしてしまっているのだ。議論を戦わせる事に慣れているアメリカ人からすれば、右派の論客として登場する人々も、それなりの理屈があって主張をしている筈なのに、左派による反論の後に述べられるべき右派の意見は紹介されず、議論が成り立っているとは思われないのだ。大抵の人々は、反対意見のある事を承知の上で、それらを考慮しながら、それでもより説得力のある論理を信じるものだ。右派がなぜ、例えば吉見義明氏による『性奴隷説』や『強制連行説』等を知りつつ、それらの見解を否定するのか、そうした根底に迫って議論を戦わせ、初めて本当の『議論』らしきものが生じるのだが、デザキ氏は、一部右派の暴論に余りにも捉われ過ぎた結果か、「女性差別や人種差別が右派の主張の根源にある」との見方しかできていない。「歴史修正主義者らがこのように主張するのは、彼らが性差別主義者で、人種差別主義者であるからです」という単純な描写は、説得力に欠けるのだ。特に、何かと言えば左派から『性差別主義者』『人種差別主義者』と左派によってレッテルを貼られてきた保守派アメリカ人からすれば、単純なレッテル貼りによる人格攻撃によって主張の正当性を疑わせようとした試みとしか映らない。一緒に鑑賞した友人のマーシャ・バーバーは、どちらかと言えばリベラル派なのだが、「何であれ、色々と複雑な問題だと思うけれど、監督は単純に極論だけを好んで紹介している気がした」と感想を漏らし、義妹であるサラ・ランプトンは慰安婦となった女性の境遇に心を痛めつつ、それでも「監督の分析は子供っぽかった。違う意見を悪者のように書いていて、あまりにも二極化した見方だった。白黒つけすぎていたし、善人対悪人というふうに描いていた」と述べている。因みに彼女たちは、慰安婦問題について映画の中で語った以外の私の意見を知らない。

 

デザキ氏の編集による、全体の内容を無視した発言の切り取りについて述べるが、私の場合を言えば、デザキ氏による執拗な「当時、アメリカ人ライターへの寄付、調査資金提供について非倫理的、道義に反していたと考えましたか」という質問に対して、「いいえ。考えませんでした」と答えた。しかしインタビューの中で私は、「調査の為の資金は提供しつつ、そのライターが達する結論については口出しない事が約束された提供でしたし、同様の、ジャーナリズムやアートに対する、結果内容を束縛しない支援は、どの財団でも行なっています。私は財団が行なうべき事を個人的範囲で行なっただけです。実際、あなたのこのドキュメンタリーの為にも、私は、内容や結果を束縛せず金銭支援したでしょう」と笑いながら付け加えた事も覚えている。デザキ氏は自分への寄付が言及された途端、「オーケー、オーケー」と、すぐに話題を変えてしまった。しかもこの部分は編集でカットされている。

 

私がGoFundMeを通してデザキ氏に寄付した理由は、秦郁彦氏にもインタビューしているとデザキ氏に聞いたからであり、秦氏が出演されているならば、それなりのものとなるだろうと期待したからだ。一応匿名での寄付であるが、金額としてはそれなりに高額であり、それが私からの寄付である事をデザキ氏は承知し、感謝も述べている。秦氏の出演は、結局秦氏が辞退した為に実現しなかったが、資金提供の結果が思い通りの作品を生まない事は当然あり得るのだ。そうした可能性を承知した上での提供であるのに、一方を不道徳としつつ、自分への寄付だけは受け付けるという姿勢は、偽善も良いところだろう。

 

『主戦場』制作への金銭支援、寄付が日本人の間でなかなか進まない事を、デザキ氏は「アメリカ人と比較して、日本人はアートを支援するという姿勢があまり発達してない」と嘆いていたが、確かにアメリカ人は、ジャーナリズムやアートを金銭サポートする事に慣れている。これは、「文化や学問への支援、チャリティーは、国ではなく個人が行なうべき」という考えが徹底しているからだろう。(因みに去年は、私の主人が資金援助した別のドキュメンタリーもミシガンシアターで上映されていた。) このような、チャリティーや文化に対する支援への意識の違いに付け込んで、まるで不正の賄賂か何かを送って情報操作をしたかのような描き方に、私はデザキ氏ならではの独善的二重基準を感じる。

 

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                   ミシガンシアター入り口   Shusenjo Q & A, with Director Miki Dezakiとある

デザキ氏や彼の支持者がどのように主張しても、この映画が偏向している内容である事は明らかである。デザキ氏による右派への偏見や偏向は、歴史認識の如何にかかわらず、彼の主張を拾うだけでわかる。デザキ氏によれば、日本の歴史修正主義者ら(反対派)は言論の自由を理解せず、彼を黙らせようとしている勢力となるのだが、ドキュメンタリーに出演している朴裕河氏は、韓国の慰安婦側によって名誉棄損で訴えられ、韓国司法によって刑事責任を問われている。その点については質疑応答でも認めていた。またデザキ氏は、さまざまな書き込みによって身の危険を感じている旨を語り、実際に彼が危害が加えられていないのは、「彼ら(歴史修正主義者)との繋がりがあまりにも明らかなので、(実際に危害を加える命令が出ていない)だと思う」といった類の解答をしていたが、こういったパラノイア的な見方については、映画主催者の一人であるマーカス・ノーンズ(ミシガン大学教授)がやんわりと否定していた。

因みにノーンズ教授は、日米のプロパガンダ映画を含め、日本映画研究の専門家であり、アレクシス・ダデン女史が、アメリカ人学者の連名を集めて日本政府によるマクグロウヒル社の教科書への意見介入に反対した際、彼女に協力する学者としての声明に名前を連ねた学者の一人である。たまたま、お互いの子供を通しての繋がりがあり、以前一家で私の自宅のディナーにお迎えした事がある。アメリカの政治趣向で言えばリベラルな人物であると思うのだが、デザキ氏が訴えられている件で、「(私見ですが)作品が余りにも偏っており、彼らを悪人と描いている事が根底にあるのでは?」という憶測に、同意していた。

デザキ氏は、「ケント・ギルバート氏、トニー・マラーノ氏だけではなく、最近は歴史修正主義者のお抱えアメリカ人としてジェイソン・モーガン氏が人気を呼んでいる」と述べていたが、デザキ氏は、これらアメリカ人の肩入れの動機に、ビジネスが絡んでいる事を示唆していた。しかしながら、全ての人がビジネスだけが目的で運動をする人々のではない。むしろ多くの活動家は、ある問題に触れ、興味を持ち、自分を納得させ、感動させる主義主張に出会い、そうした考えに心から同意しながら運動に参加する場合が殆どではないか。そうした可能性を無視して、ただのビジネスや、有名になりたい願望によってのみ人々が政治問題に関わると考えるなら、「デザキ氏の背後には中野晃一氏があり、中野氏の背後には誰某があり、その背後には何々という団体があり、結局はそれがジョージ・ソロスに繋がる」といった、それこそ加瀬氏を頂点とした陰謀の系図を真似て、アメリカ人右翼が喜びそうな陰謀論を唱える事もできるのだ。デザキ氏は、己の繰り広げた陰謀説の幼稚さを、自分が同様の陰謀の系図に当てはめて語られない限り、理解できないのかもしれない。但し、自分に対する寄付は疑問に思わずに、別のライターへの寄付は不道徳と位置付けるような独善的二重基準をデザキ氏が持ち続ける限り、デザキ氏が自分より大きな世界を理解する事は、所詮不可能だろう。

伊藤詩織氏批判について考える

アメリカに暮らしていると、日本の話題も、こちらが積極的に探そうとしない限り、自然に入ってくることはあまり無い。ジャーナリストである伊藤詩織さんの『勝訴』のニュースについて、私は親日派の友人であるポーランド人数学者から「これは日本の裁判に関する、良いニュースだ」という形でニューヨーク・タイムズのリンクが送られてきた為、その記事を読んで知った。https://www.nytimes.com/2017/12/29/world/asia/japan-rape.html

記事を読んだ時点では、この『勝訴』は当然の事と思われ、日本の保守派の間でもそのように受け取られているだろうと考えた。ところが、色々なところから、被害者側である伊藤氏の方に非があるとする意見が目につき始めたので、私なりに日本の記事もいくつか読み、山口氏が月刊Hanadaに書かれた記事も拝読した。https://hanada-plus.jp/articles/250 https://hanada-plus.jp/articles/260

これらを踏まえ、私なりの意見を纏めてみる。

 

重要なタクシー運転手の証言とホテルのカメラ

Motoko Rich氏によって書かれたニューヨークタイムズの記事は、伊藤詩織氏勝訴のニュースを『Me Too』と関連付けて、この勝訴をもって日本の性被害女性もこれから名乗り出易くなるのでは、と期待しているようだ。私はどの事案であっても、一つ一つのケースをそれぞれ判断していくのが良いと考える為、急進的一部の左派から聞こえる、訴え出る女性が嘘をつく筈が無いと信じる事が大切であるかのような極論には賛成しないが、この記事を読む限り、裁判所の判断は納得がいくものだと思われた。私が読んで、山口敬之氏による強要性を最も強く感じたのは、伊藤氏と山口氏を乗せたタクシー運転手の証言である。運転手の証言によれば、駅で降ろして欲しい旨を伝えた伊藤氏の複数回に及んだ願いを無視して、山口氏は何もしない事を約束しながら、運転手にホテルまで車を走らせることを指示したと言う。伊藤氏はタクシーの車中で嘔吐もしている。また警察が入手したホテルのカメラには、伊藤氏が意識の無いまま山口氏に抱えられてホテルのロビーを移動する姿も映っている。これらの点から考えれば、伊藤氏が性行為への合意をハッキリと示す状態ではなかったと理解するのが自然だろう。検察による不起訴の処分を不服とした伊藤氏が民事裁判に訴えた事に反発する形で山口氏が月刊Hanadaに寄稿した『私を訴えた伊藤詩織さんへ』も読んでみたが、やはり山口氏による「合意の上での性行為であった」という主張を信じるに足るには至らなかった。

 

鈴木裁判長の指摘した山口氏証言の矛盾

山口氏の主張だけを拾っても、(氏によれば)何度も嘔吐を繰り返した女性の酔いがほんの数時間後にはすっかり醒めているのに対し、山口氏自身は伊藤氏に宛てたメールで「私もそこそこ酔っていたところに、あなたのような素敵な女性が半裸でベッドに入ってきて、そういうことになってしまった」と、山口氏の酔いは醒めていなかった旨を書いている。しかも民事裁判の法廷において、性行為が行なわれたベッドはドアの近くにある伊藤氏が寝かされていたベッドであったと証言しているのに、伊藤氏が入ってきた「私の寝ていたベッド」は、ドアの近くのベッドであったとも答えている。これでは、同意の上での性行為であったという核心部分についての説明に矛盾があると、東京地裁の鈴木昭洋裁判長が「不合理に変遷していて信用性について重大な疑いがある」と指摘したのも無理はない。

 

被害女性の複雑な心理

特に「もしあなたが朝の段階で私にレイプされたと思っていたのであれば、絶対にしないはずの行動をし、絶対にしたはずの行動をしていない」等の主張は、その基準が山口氏の主観や予測がベースとなっただけのもので、科学的データや調査を基にしたものではない。山口氏の主張は、伊藤氏との性行為を山口氏が強姦だと考えていなかった、という主観を主張したものでしかないのだ。加えて言えば、知り合いによるレイプやデートレイプ等の後の被害女性の複雑な心境や行動はさまざまであり、全ての被害女性が一様の反応をするとは思われない。「レイプであったら、こうした行動はとらない筈」という類の主張は、山口氏に限らずその他の右派言論人からも聞こえるが、期待の反応をしなかったからと言って、その性行為に同意があったか無かったかの証明とはなり得ない。むしろ「我々が納得する言動を行なわない限り、レイプ被害者だとは認めない」という偏狭な偏見や期待をこれらの人々が持っている証でしかない。私の知り合いにも強姦の被害者となった女性はいるが、レイプ被害後、彼女は加害の男性に対して強い不信感や嫌悪感を感じながらも、表ざたにするよりも、加害男性の反省をそれとなく求めつつ、今まで積み上げてきた関係の全崩壊に至らないように、出来るだけ穏便に済ませる方法を探っていた。男性の反省が全く無く、むしろ開き直る態度であった為、加害男性との関係を完全に絶ったようだが、それでも「あなたの側に隙があったのでは」と批判される事を嫌がり、泣き寝入りに甘んじている。彼女のように、強姦でありながらも、出来るならば穏便に済ませようと試みたり、或いは自分の身に起きた事が犯罪ではないかのように否認する被害女性の複雑な心理などは、単純な事柄以外に思考が及ばない人々には決して理解できないだろう。

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泥酔すれば女性に非があるのか

密室での出来事であり、真相はわからないという意見があるとして、私が違和感を強く覚えるのは「男性の前で泥酔状態となるまで飲酒したのだから、伊藤氏には女性としての非がある」という理屈だ。

山口氏は『Hanada』に寄せた文章で、伊藤氏が日本人相手のキャバレーで働いていた事や、就職の紹介を求めて連絡を取ってきたと書いている。キャバレーで働いていたのだから、伊藤氏は女性としてルースであり、強姦ではないと言いたいのだろうか。山口氏の記述に呼応するように、若い女性が就職の紹介を男性に求め、その男性と食事に行き、二人で飲酒をした上、意識が無くなるまで飲酒をしたのだから、レイプされてもしかたないというかのような、伊藤氏への批判が右派から上がっている。私は、こうした主張をする日本の右派の『性に対する女性の権利』への意識が、日本の左派や、保守派を含めた欧米人と比較して、発展途上のままである事を感じる。これは、左派や欧米に強姦や性犯罪が無いからでは無い。左派や欧米にも性犯罪は発生する。職業上立場を利用したり、女性を泥酔させ、性的搾取を行なおうとする男性は、左右を問わず、どこの社会にもいる。しかしながら、そうした行動を良しとしたり、弁護したり、却って女性の側を非とする声など、左派や欧米には無い。他者が自分の体に対して持つ権利という概念が確立している人々にとって、相手の弱みに付け込んで、他者から搾取する行為は、「弁解する余地がない」「人として恥ずべき行為である」と理解されているからだろう。

そもそも「泥酔状態に陥って隙を見せたのだから、隙を見せた方が悪い」という主張は、あまりにも醜悪だ。伊藤氏と山口氏の問題に関して自民党の杉田水脈議員は、「(伊藤氏には)明らかに女としての落ち度がありますよね。男性の前でそれだけ飲んで、記憶をなくしてっていう」と発言しているが、敢えて皮肉を込めて指摘すれば、映画『主戦場』の中で杉田氏は、「騙される方が悪いという考え方は(日本人の考え方ではなく)、中国人や韓国人のものだ」という類の発言していた筈だ。杉田氏はあまり事実や一貫性を考慮しながら発言をされる方ではない。むしろ無知を土台とした偏見や稚拙な身内意識によって発言しているだけだろう。それでも「一般論としながら、女性が男性の前で泥酔すれば、女性としての非がある」という見解や倫理観は、杉田氏のような暴論によって知られる人物以外からも聞く。しかしながらそうした論理は、果たして保守派が掲げる「美しい日本」に相応しいものなのだろうか。

 

財布を落としても戻って来る日本

例えば、職の斡旋を求めてきた人物が意識を失うほど泥酔して、眠り込んでしまったとする。こうした場合、眠り込んでいる人物の財布を奪い、中に入っているお金を盗むことは容易だろう。一緒に飲酒している相手は、こうした状況に遇った場合「人前で泥酔している方に隙がある」として、泥酔している人物から財布や貴重品を盗んで良いのだろうか。「合意の上でのやり取りだった」として、泥酔状態にある人物との合意が成り立つと主張できるだろうか。「職を下さいと言ってきた人物が財布を盗まれましたと被害を訴えるところに矛盾を感じる」等、盗まれた側に非があるかのような議論を行なうだろうか。しかも「財布を落としても、中のお金が盗まれる事なく持ち主のもとに帰って来る」と言われる日本で、である。もし誰かが「日本は、泥酔して財布を落としても、中のお金が盗まれる事なく持ち主のもとに届けられる国です」と日本社会の倫理観の高さを謳いながら、「男性の前で女性が泥酔したのだから、女性は強姦されても非は彼女にあります」などと本気で主張すれば、その人は、金銭の価値は理解できても女性の尊厳を理解できない野蛮で未開発な人物であると批判されるべきだろう。

 

山口氏はどうすれば良かったのか

「山口氏が泥酔状態に陥った伊藤氏を抱え、自らの宿泊するホテルに連れ込んだのは山口氏なりの親切心からの行動である」という意見は、一応の理解が出来る。「泥酔状態の若い女性を駅で降ろすわけにはいかない」と真摯な心から行なう場合もあるだろう。「悪い人に付け込まれるかもしれない」「酔ったままで無事に家に帰れるだろうか」等の心配は当然である。しかしながら山口氏が、もしそうした紳士的な親切心や善意から来る心配によって、伊藤氏を自分のホテルの部屋に連れてきたならば、当初の紳士精神に従って、山口氏は伊藤氏の弱みに付け込まず、何も無いまま彼女を無事に帰すべきであった。

また当然過ぎて主張されていないが、山口氏にとってはホテルに連れ込んだ時点で何ら疚しさも後ろめたさも無く、完全に合意の上の性行為であったならば、後に伊藤氏から合意の上での性行為ではなかったショックを知らされた時には、自らの『勘違い』を潔く謝罪し、それに徹するべきだった。伊藤氏について「あなたは、キャバレーで働いていました」と暴露して攻撃するよりも、誠実で紳士的姿勢を山口氏が徹底して示していれば、伊藤氏の受けた傷も浅く済んだかもしれない。まして「自分は疚しい思いからではなく、心配と親切心からタクシーをホテルまで走らせ同室に泊め、同意の上だという勘違いのもと、性行為に至ってしまった」という高潔な動機の主張も、一般的には信じ易かっただろう。

そうではなく、事件とは関係の無い伊藤氏批判を発表し、伊藤氏に責任転嫁し、彼女に味方する野党議員の存在を以て自らに対する政治的陰謀の存在を示唆する山口氏の姿勢こそが、彼の人格の高潔さに疑いを抱かせてしまっている。